練馬事件(印藤巡査殺害事件)とは
練馬事件(印藤巡査殺害事件)
警察官殺害事件。労働争議で傷害事件の犯人を検挙した警察官が、駐在所からおびき出されて撲殺された。犯人は当時の政治状況下で武装闘争を唱えた左翼政治団体の13人。
麦畑の中
1951年12月26日、東京都練馬区旭町の練馬署旭町駐在所勤務の印藤勝郎巡査(32歳)はこの日公休で、池袋に出かけていたが、夜に帰宅した。午後10時20分ごろ、旭町駐在所に若い男がやって来た。印藤巡査は帰ったばかりで奥の間で着替えており、妻(当時26歳)が応対した。男は長いボサボサ髪の学生風で、こう言っていた。
「小田原製紙工場の横の道路に行倒れらしい男が倒れていますから、すぐ来てください」
着替えを終えた印藤巡査が妻に代わって話を聞き、男の住所氏名をメモして机の引き出しに入れ、私服姿に拳銃を装帯し、男と現場を見に行った。
小田原製紙工場は駐在所のすぐ近くだが、印藤巡査は帰らなかった。妻は寝ないで夫の帰りを待っていたが、不審に思って3時間後に近くの田柄駐在所に電話して事情を伝えた。
田柄駐在所の菅原巡査と、たまたまそこへ来合わせていた松浦巡査部長は2人で雨のなか印藤巡査の足取りを辿ってみた。しかし印藤巡査の姿はどこにも見えない。当時の小田原製紙工場付近はまだ麦畑が広がるのどかな所だった。外灯もなく、2人の警官は闇の中を探しまわったが、鼻と口から血を出した印藤巡査の遺体を発見できたのは夜が明けた午前7時過ぎのことだった。
発見場所は駐在所から約290m離れた畑道。印藤巡査の死体には十数か所の傷があり、致命傷は後頭部の長さ3cm深さの裂傷で、重い鈍器で殴られたものと見られた。印藤巡査は仰向けに倒れていたが顔には泥や血痕がついており、実弾6発を装填したピストルが奪われていた。十数か所の傷は頭や顔に集中しており、胸や腹には認められなかった。現場付近の麦畑にはマフラー、帽子が散乱しており、角棒、丸棒(スコップの柄)、竹、古鉄管なども発見された。このうち鉄管は現場近くの民家の畑のまわりに柵としてたてかけてあったものだとわかった。
警視庁は即日特別捜査本部を設け、国警埼玉県本部、朝霞地区署に協力を求めて捜査を開始した。
出典:練馬事件
謀
印藤巡査の妻の証言では、誘い出し役の男は20歳ぐらい、背丈は五尺一寸(約155cm)、角張った顔でジャンパーか背広のジャケットを着ていた。連れ出される直前に印藤巡査が記したメモには「板橋区上赤塚町○○○○ 法政大学専門部 山本真治 21歳」とある。もちろんそんな住所はなく、偽名であった。当時、近くの小田原製紙東京工場では賃上げと労働協約の締結をめぐって争議が起こっており、会社側と労組側が対立、さらに争議に反対する穏健派の第二労働組合が結成され、2つの労組が分裂して対立。出荷阻止の抗争なども起こっていた。
第一組合はソ連帰りの植村委員長以下63人の組合員がいた。その中で特に青年行動隊10人が先鋭的で、アリバイなどがはっきりしなかった。捜査の目は当然この青年行動隊に向けられた。
印藤巡査は情報収集のためたびたび工場に出入りして労組員同士の暴行傷害事件などを調べていた。
事件直前の12月5日、同工場の第二組合の田中(当時26歳)という男が、第一組合の数人から暴力を受けた事件があり、犯人の一人として小林(当時17歳)という男を印藤巡査が逮捕している。
そのためこれを怨みに思う者がいて、旭町一帯に
暴力団印藤を町から追放しろ
資本家と結託している印藤を葬れ
印藤ポリ公、我々の力を覚えておけ
といったビラが貼り出されたりもしていた。他にも組合分裂にからむ傷害事件で組合員1人が逮捕された時も「印藤に引導を渡せ!」「畳の上では死なせないぞ」というビラがばらまかれた。このため警察は思想的背景を持った事件あるいは怨恨によるものと見られた。
※礫川全次氏は「戦後ニッポン犯罪史」のなかで、旭町駐在所は1949年に新設され、当初から印藤巡査が駐在していた点や、「綿密な視察内偵をとげ、関係労組員等の先鋭分子の動向をよく把握していた」とする警視庁刑事部「重要事件検挙事例」などから、印藤氏が『駐在所巡査の任務を越えた公安的な任務を担当していたと見て間違いないだろう」と記している。
まもなく付近の工員らを別件の傷害事件で逮捕したが、巡査殺害事件と無関係とわかり釈放している。
1952年1月26日、捜査本部は脅迫ビラを作った18~23歳の5名名を暴力行為等処罰令違反容疑での逮捕を決定。内偵をすすめたのち、2月13日、自宅や出勤途上で逮捕した。この5人は板橋区の保田(当時20歳)、同じく豊島(当時17歳)、同じく沖田(当時18歳)、同じく久下(当時20歳)、練馬区の鈴木(当時23歳)。
5人はいずれも取り調べに対して一言も発しようとはせず、署名すら拒否する者もいた。しかし、うなされたり様子がおかしかった保田が当日現場に行き、暗闇のなか味方の者に頭を殴られて怪我したことを告白した。
この自供により、2月18日、殺人容疑で青年行動隊員である菅谷(当時24歳)と小島(当時20歳)、日本共産党成増細胞責任者・藤塚善男(当時26歳)、元グランドハイツ傭人で進駐軍要員労組キャップ前野(当時30歳)、板橋労協キャップ箕輪(25歳)の5名を逮捕した。
犯行計画は事件の10日前に第一組合の事務所で決定されていた。印藤巡査だけでなく、小田原製紙第二組合の香川委員長も会社側に通謀したとして標的に挙げられていた。
計画の首謀者は共産党北部地区軍事委員長の矢島勇(当時25歳)で、小田原製紙の青年行動隊、ストの応援に着ていた共産党員、学生らがひそかに集まって謀議を進めていた。
事件当夜、印藤巡査を襲うグループと、香川委員長を襲うグループが分かれて集まっていた。印藤巡査を襲う班は豊島の自宅に5人が集まった。豊島の他に、誘い出し役の法政大生の山本真治役の男、行倒れ役の男、眼鏡の男、柔道が得意だという男がいたという。香川班は保田の自宅に小島、菅谷、他に学生2人が集まった。
そして午後10時半、それぞれ役割を持った男たちが現場に向かう。香川委員長襲撃班の方は会社の寮をうかがっていたが、香川氏は忘年会に出かけているということがわかったため、引き返して印藤巡査グループに合流している。
現場の麦畑まで連れて来られた印藤巡査は、行倒れ役の男を腰をかがめてのぞきこんだ。その時うしろから小島に鉄管で殴られ、取り囲まれてメッタ打ちにされた。菅谷がピストルを奪って逃げたが、その途中で後から追いついてきた、誰かはわからないが仲間の二人に渡している。
捜査本部は首謀者・矢島を指名手配、名前が判明していない共犯者を追った。
謀議にいた眼鏡の男は以前板橋のマグネ工場の工員をしていた出浦(当時25歳)という男で、3月5日に自宅で逮捕。誘い出し役の自称法大生・山本は貞治という名で共産党の外郭団体の中央合唱団のメンバーであることがわかったが行方知れず。行倒れ役の男は教育大学理科学部動物学専攻の葛西(当時22歳)という男とわかった。葛西は事件後に大学を出て岐阜市の高校に勤務していたが、4月8日に学校前の路上で逮捕された。もう一人いた男は葛西の友人で教育大生の西条(当時25歳)だった。
5月30日、板橋署岩ノ坂交番襲撃事件が起こる。この事件の関係者の一人として「高村」という男が6月2日に検挙されたが、7日になって消息を絶っていた矢島勇によく似ていることがわかり、指紋照合の結果本人とわかった。しかし奪われたピストルは発見されなかった。
出典:練馬事件
判示事項
事件番号 昭和29(あ)1056事件名 傷害致死、暴行、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反、窃盜
裁判年月日 昭和33年05月28日
法廷名 最高裁判所大法廷
裁判種別 判決
結果 棄却
判例集等巻・号・頁 刑集 第12巻8号1718頁
出典:裁判所 二 実行行為に関与しない共謀者の刑責と憲法第三一条 三 「共謀」または「謀議」は、共謀共同正犯における「罪となるべき事実」であるか 四 共謀の判示方法 五 憲法第三八条第二項の法意 六 憲法第三八条第三項の法意 七 被告人本人との関係における共犯者の犯罪事実に関する供述と、憲法第三八条第三項にいわ ゆる「本人の自白」 八 数人間の順次の共謀と共謀共同正犯の成立 出典:裁判所
■共謀共同正犯が成立するには、二人以上の者が、特定の犯罪を行うため、共同意思の下に一体となって互に他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をなし、よつて犯罪を実行した事実が認められなければならない。■「共謀」については、厳格の証明によって立証されなければならない。
■共謀の判示は、前示の趣旨において成立したことが明らかにされれば足り、さらに進んで、謀議の行われた日時、場所またはその内容の詳細、すなわち実行の方法、各人の行為の分担役割等についていちいち具体的に判示することを要するものではない。
■憲法38条2項は、強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白を証拠能力を否定している。
■憲法38条3項は、被告人本人の自白の証拠能力を否定又は制限したものではなく、証拠の証明力に対する自由心証主義に対する例外規定として補強証拠を要するよう定めた規定である。
■共犯者の自白を憲法38条3項でいう「本人の自白」と同一視し又はこれに準ずるものとして、共犯者の自白だけで犯罪事実を認定する場合さらに補強証拠を要すると解することができない。
■数人の共謀共同正犯が成立するためには、その数人が同一場所に会し、かつその数人間に一個の共謀の成立することを必要とするものでなく、同一の犯罪について、甲と乙が共謀し、次で乙と丙が共謀するというようにして、数人の間に順次共謀が行われた場合は、これらの者のすべての間に当該犯行の共謀が行われたと解すべきである。
裁判
1952年6月11日、東京地裁で初公判。この日は地裁周辺に丸の内署の制服警官60人が警戒にあたっていた。裁判は早朝からつめかけた学生、工員らが傍聴しており、被告が入廷すると、傍聴席にいた被告の家族や労組員が拍手で迎え、被告たちは「がんばるからね」「ごくろうさん」などと答えていた。1953年4月14日、東京地裁で矢島に懲役5年、この他8人にも有罪判決が下された。
1954年12月26日、東京高裁は一審を指示し、双方の控訴を棄却。
1958年5月28日、最高裁上告棄却。10人の有罪は確定した。
出典:練馬事件
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