世界の有名な屍体愛好者(ネクロフィリア)まとめ

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ネクロフィリアとは

死体に性的興奮を感じる異常性欲。死体性愛。屍姦(しかん)症。

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カール・フォン・コーゼル

1930年代のフロリダ、キー・ウェスト島。

 この地でレントゲン技師として働くドイツ人医師、フォン・コーゼルは美しい女性患者のエレナに一目で恋をした。当時エレナは人妻だったが、その夫は彼女に肺結核の症状があらわれ悪化するや、何のためらいもなく彼女を捨てた。

 2人は恋に落ち、コーゼルはエレナの治療に全力を尽くしたが、キューバ人以外の男性との結婚を望まないエレナの家族は2人の仲を妨害した。エレナの生まれ育った家はお義理にも裕福とは言えず、コーゼルは爵位まで持つ高い身分の男性だったが、それでも家族たちはコーゼルの血が混じることを快しとはしなかったのである。

 家族は衰弱したエレナを連れて行方をくらまし、やっとコーゼルが彼らを探しあてたそのときには、エレナは手の付けようもないほどの重病になっていた。家族は金がなく、彼女を医者に診せることすらできなくなっていたのだ。

 エレナは彼の手をとり、こう告げた。

「私が死んだら、あなたに遺せるのはこの体だけだわ。病気が重いし、もうあなたとは結婚できない……でも死んだら私の体を預けるから、ずっと面倒をみてね」

 コーゼルはきっとそうすると約束し、彼女の指にダイヤの婚約指輪をはめた。

 エレナが息をひきとったのは、それから間もなくのことである。

 遺体は松やパームツリーに囲まれた豪華な霊廟に安置された。費用はすべてコーゼルが負担したため、墓碑銘の右下には彼自身の名も刻まれた。

 だが葬儀が終わってもなお、コーゼルの想いはエレナから離れることがなかった。エレナの家族は「この家にいると死んだ娘を否応なしに思い出させられるから、売り払って引っ越す」と嘘をついて彼を遠ざけようとしたが、コーゼルは

「いや、それなら僕がこの家を借ります。たとえ買う羽目になってもね」

 と言い張った。1ヶ月5ドルの間借り賃に心が動いた両親は、しぶしぶ彼の主張を受け入れた。かくてコーゼルはエレナが生前寝ていたベッドで、毎晩彼女の残り香に包まれて眠るようになったのだった。

 だがそれだけでは飽き足りず、コーゼルは葬儀屋を買収して霊廟の中へ夜な夜な出入りするようになった。彼はエレナの死体にホルマリンをたっぷり振りかけ、損傷した手足をスポンジで拭いて清めた。そしてオーデコロンをくまなく振ったのち、滅菌した木綿で遺体を幾重にも包んだ。また、死体の損傷や腐敗を抑えるための溶液を調合して恒温槽にそれを満たし、エレナをそこに漬けたまま棺に戻した。

 2年間、コーゼルはその霊廟へ毎夜通った。が、ある夜彼はエレナが

「ここはいや。あなたの家へ私を連れて帰って」

 と懇願する幻をみた。彼は彼女の幻に「きっと連れて帰るよ」と誓い、ついに彼女の死体を霊廟から運びだした。

 彼は婚礼用タキシードに身を包み、棺を毛布でくるみ、荷車に積んだ。運搬中のアクシデントが度重なり、彼のタキシードは泥と、遺体から滴る液体でどろどろになったが、彼は意気揚揚と花嫁を、用意した「新居」へと運びこんだ。

 棺を開けて彼は嘆息した。

「ああ、いとしいエレナ。長いこと放っておいてすまなかった。きみをもっと早く救いに行けなかった私に罰があたらなければいいが。美しい目がこんなにへこんでしまって、ドレスも朽ちて、きみの美貌に似つかわしくないよ」

 コーゼルは彼女の皮膚に傷をつけぬよう、細心の注意を払ってピンセットで朽ちたドレスの残骸を剥がした。また、オーデコロンや香水入りの石鹸、ワインで充分に彼女を洗い、腐り落ちた眼球の代わりに義眼をはめ、鼻に副木をした。

 石膏のデスマスクを作ろうと思い、エレナの髪や目鼻を守るため、油引きした絹で顔を覆ってから、蜜蝋と香膏をかぶせると、なんとその絹が石膏が固まる間に、皮膚にしっかりと貼りついてしまった。しかしそれはまるで第二の皮膚のように美しかったので、コーゼルは「彼女の新たな顔」としてその出来に満足した。

髪はグリセリンで光沢を取り戻させ、胸の上で組まれていた手は滑車をつかってもとの位置まで伸ばした。内臓の代わりに吸収材を詰め、絹を全身に貼り、完全に滅菌処理をほどこし、ドレスを着せてキルト布団でくるんだ。

 エレナは全身を宝石と絹で飾られ、化粧され、花で包まれて横たえられた。コーゼルはその姿を、

「以前とまったく変わらない、輝くような美しさ」

 だと思った。彼は毎日彼女の髪を花で飾り、オーデコロンと香水をふりかけ、虫よけのため絹と蝋で縮んだ皮膚を補い、そしてその横で毎晩添い寝した。

 そんな生活が7年続いた。

 が、終わりは唐突にやってきた。1940年9月、ついにエレナの遺体が霊廟にないことが発見されたのである。

 エレナの姉、ナナがコーゼルを問い詰めると、彼は自宅へとナナを案内し、

「見てごらん、この美しいエレナを。彼女は今こうして幸せでいるのだから、安心して帰りたまえ」

 と言った。

 ナナは愕然とし、「妹をお墓へ返して」と頼んだが、コーゼルにはなぜ彼女がそんなことを言うのか理解できなかった。

「時が来ればエレナは僕とともにあの霊廟へ戻るよ。だが今はまだその時期じゃない。なぜ今になってエレナのことをそんなに気にする? 彼女の死後9年間、一度だって世話したこともないくせに。ひょっとして彼女の宝石に目がくらんだのか? エレナは天使だったが、あんたはそうじゃない。帰ってくれ」

 ナナは逃げ帰り、保安官に連絡した。コーゼルは死体隠匿罪で逮捕された。

 法務主任はコーゼルを評して「彼はたいへん高い知性を持っているが、恋に狂ったのだ」と言った。

 ナナはエレナの死体を正式に埋葬しなおすことを裁判所に要請した。コーゼルはこれを聞いて激怒し、「あれほどまでに苦労してエレナを作りあげたのに、埋葬されてはまた彼女は朽ちてしまう。彼女は僕のすべてだ。そのすべてを奪うのか」と叫んだ。

 世間は――特に女性一般はコーゼルに対し、好意的だった。男性も彼を酒場で冗談のネタにすることこそあれ、おおむね同情的であり、「ほんとうに愛していたのなら、やむを得ないかもしれない」との意見でほぼ一致していた。

 法廷で、ナナはエレナの死体について「あんな醜悪なものを見たのははじめてでした。髪はまだあって、ガラスの目をはめていて……手足は靴下をかぶせた棒きれみたいでした。あれは怪物でした。あんなおぞましいもの」

 と述べた。だが聴衆は、

「エレナは僕が生涯かけて捜し求めてきた人だった。僕は彼女に出会う前から彼女を求め、彼女の幻を見てきた。彼女の魂は不滅で、いまも僕のそばにいる。僕は彼女の身になにが起ころうと、彼女を愛し、守ると誓ったのだ。彼女を死と腐敗の手に渡すわけにはいかない。僕は彼女に、一生かけて守ると約束した。たとえ命を賭けることになっても」

 という、騎士のごときロマンティックな言葉を支持した。

 もっとも事実は(公表はされなかったものの)それほどロマンティックというわけではなかった。蝋人形さながらのエレナの死体は、乳房と尻に弾力ある素材が詰められて本物そっくりの手ざわりにまでなっており、膣の部分に性交が可能なほどの太さのチューブが付けられていた。チューブの先端には綿が詰まっていて、綿には精液が付着していた。

 ナナは最後までコーゼルを「鬼畜、ひとでなし」と糾弾し続けたが、世論の効果もあって彼は無罪となった。ただし、エレナを彼の手に返すことはさすがにできるものではない。エレナは切断されて50センチ平方の箱に詰められ、コーゼルにふたたび墓を暴かれることのないよう、秘密裏に再埋葬された。

 失意のうちにコーゼルは田舎にひっこみ、家の一角に聖壇を作って、唯一返してもらえたエレナのデスマスクをそこに飾った。彼は田舎でも毎日正装して、死せる花嫁のために飾る花を摘みに出歩いていたそうだ。

 1952年、郵便受けに新聞が溜まっているのを発見した隣人が保安官に連絡した。コーゼルは聖壇の棺の前に倒れて死んでおり、すでに腐乱していたという。

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エレナの写真に見入るコーゼル

カール・フォン・コーゼルこと本名カール・テンツラーは、1877年2月8日にドイツのドレスデンで生まれた。1920年に結婚し、2人の娘を儲けている。1926年にはオランダ発キューバ経由でアメリカに入国、フロリダ州ザファーヒルズに定住した。ところが、翌年には妻と娘を捨てて蒸発し、フロリダ半島の最南端、キーウェストのマリーン・ホスピタルでレントゲン技師としての職を得る。その際に用いた偽名が「カール・フォン・コーゼル」だったというわけだ。

橋本長吉

-経緯-

昭和7年5月9日午前11時頃、神奈川県大磯町の通称・坂田山の山林でキノコ狩りしていた地元の人が若い男女の心中死体を発見した。男は学生服、女は錦紗の着物を着ており一見しただけで裕福な男女であることがわかった。


発見者の通報で駆けつけた大磯署の捜査官は早速現場検証を開始した。間もなく、男の学生服の内ポケットに入っていた遺書から2人は東京市芝区白金三光町(現東京都港区白金台)の調所(ずしょ)男爵家の子息で慶応義塾大学3年生の調所五郎(当時24歳)と静岡県駿東郡富岡の大資産家令嬢・湯山八重子(当時21歳)であることが判明した。


現場は、五郎の枕もとに本が数冊と制帽、八重子の枕もとにはハンドバックと金の腕時計、ルビーの指輪などが置かれていた。その付近に昇汞水(しょうこうすい)と呼ばれる写真の現像に使う水銀が入っているビンが発見された。状況から、この昇汞水をあおり心中したことが確認された。


大磯署は、調所、湯山の両家に連絡する一方、事情を聴取した。その結果、2人は結婚を誓いあったが八重子の両親は結婚に反対だった。そのため、2人はこの世で結ばれることができないならば、死んで天国で結ばれたいと坂田山で心中したことがわかった。


大磯署は他殺などの事件性はないと判断。双方の家族が到着するまで白木の箱に納めて近くの寺の境内にある無縁仏に仮埋葬をした。


-猟奇事件に発展-

翌日の10日午前6時30分頃、寺の墓番の妻が仮埋葬されている土盛が掘り起こされ付近に女性の衣類が散乱しているのを発見した。寺に急行した大磯署の捜査官が調べたところ、仮埋葬した2人のうち八重子の遺体が無くなっていた。令嬢の遺体が盗まれるという猟奇事件は新聞で大きく報道され世間は大騒ぎとなった。


大磯署は神奈川県警に応援を求める一方、地元の青年団、消防団などを動員して大磯駅を中心に山側と海側に分けて捜索を開始した。その結果、翌日の11日午前8時40分頃、海岸へ向かう小道で女物の襦袢が落ちているのを発見。更に松林に囲まれた船小屋に踏み込むと砂地の中から全裸の八重子の遺体が出てきた。


大磯署は、遺体の搬入、搬出に慣れている埋葬作業員達が怪しいとみて身柄を拘束して聴取を始めた。当初、犯行を否認していた作業員達の中で橋本長吉(当時65歳)が事件から10日後の18日になって犯行を自供した。


大磯署の取調べで橋本は「9日の夜、資産家の令嬢が心中した話を聞き込み、家族に埋葬場所を聞いた。異常な興奮を覚え無縁仏に向かい女の遺体を船小屋まで運び出し、全裸にしてから愛撫したり局部を見たりした」と供述した。


橋本の自供は新聞報道を更にエスカレートさせた。東京朝日新聞は「怪異の謎解ける 令嬢死体泥棒は65歳の隠亡 10日目にやっと自白 おぼろ月夜に物凄い死体愛撫 美人と聞いて尖った猟奇心」と大きく見出しを付けた。

出典:坂田山心中事件(事件史探求)

	

林邦太郎

1957年(昭和32年)4月2日の夜、東京都中野区在住のプロレスラーであった清美川梅之の長男A(12歳)が銭湯に行ったまま帰らず、その2日後、同区内に住む母親のところに次のような脅迫状が届く。

子どもを戻してもらいたかったら、午後4時までに東上線鶴ヶ島駅へ115万持って来い

母親はすぐに警察に通報。脅迫状の指示通りの金を用意して鶴ヶ島駅に出向き、周囲には刑事が見張っていたが、Aも犯人も現れなかった。やがてAの同級生から、銭湯からAが25歳前後の男性と一緒に出て行くのを目撃した証言が得られたが、容疑者の特定には至らなかった。

同月9日、都内の精神病院Sから警察にある患者に関する通報が入る。その患者は日本棋院に所属する囲碁棋士(七段)である林有太郎の長男林邦太郎(当時26歳)で、患者の中野区の家にバラバラにされてホルマリン漬けにされた遺体があるという情報だった。警察が林の自宅に駆けつけてみると、遺体は行方不明のAであることが判明。林は逮捕された。


林は犯行以前から、銭湯やそろばん塾の帰りの少年を言葉巧みに誘い、わいせつな行為を行ったり、暴力を振るっていたりしていた。また、飼いネコを殺してバラバラにして食すこともあった。誘拐事件の数日前に林はAに声をかけていた。Aは同級生に「さっき、僕の背中を流してくれたあの人(林)に、僕は殺されるかもしれない」と話していたことが判明している。

4月1日、Aを見かけて接近、翌日の2日、執拗に銭湯でAを家に誘い、家人を銭湯に追い出す。自宅に二人きりとなり、林はAの服を脱がそうとしたが拒否されたため、殴って殺した。

林はAを殺害した後に遺体を2晩がかりで刃物でバラバラにすると、大型の金魚鉢など4つの容器にホルマリン漬けにして密閉して保存。精神病院Sに入院するまで毎晩それらを取り出して眺めていた。その間に、Aの家にいたずらとして身代金を要求する手紙を送った。

林は詳細な日記『若松湯』を残していた。ノートには「ついに捜し求めていた理想の少年を見つけた」「金魚鉢に入ったあの子は、見ても見ても飽きるということがない。ホルマリン漬けになったあの子は生きているときより、いっそうかわいい」などと書いていた。

林は精神鑑定を受けたが、責任能力が認められ1958年7月、懲役10年の判決を受け、控訴せず服役した。


出典:少年誘拐ホルマリン漬け事件 - Wikipedia

	

少年誘拐殺人ホルマリン漬事件(林邦太郎)

少年誘拐ホルマリン漬け事件(しょうねんゆうかいホルマリンづけじけん)とは、少年愛者によるバラバラ殺人事件。加害者と被害者の双方の親が著名人である殺人事件である。

ヴェラ・レンツィ

1903年、ルーマニアの首都ブカレストの裕福な家庭に生まれたヴェラ・レンツィは、我が儘放題に育てられたのか、問題の多い少女だった。15歳の頃から家出の常習犯で、その殆どが駆落ちだった。相手はいつも年上の男。背伸びがしたいお年頃だったのだろう。しかし、彼女の異常な嫉妬深さ故にいずれも長続きはせず、すぐに帰って来てはまた駆落ち。その繰り返しだった。

 最初の結婚が何歳の時だったのかは詳らかではないが、とにかくヴェラはかなり年嵩の実業家と結婚し、間もなく一男をもうけた。ところが、数年後には夫は行方不明になってしまう。当然ながら隣人たちは不審に思う。彼女は涙ながらに弁明する。

「あの人、愛人をこさえていたの。その女と逃げたのよ」

 まあ、そういうこともあるかもね。隣人たちはさして疑わず、その時は事件にはならなかった。


 1年後、傷心が癒えたヴェラは再婚する。このたびのお相手はほぼ同年齢の男だった。ところが、こいつもまた1ケ月ほどで行方不明になっちまう。

 また逃げられたってか?

 彼女の性格を知っていれば、この辺りで怪しむべきなのだが、やはり事件にはならなかった。


 その後のヴェラは色に狂ったかのように、男という男を取っ替え引っ替え自宅に引き摺り込んだ。相手は未婚既婚を問わなかった。そのほとんどが数週間でいなくなった。中には僅か数日でいなくなる者もいた。

 最後に引き摺り込まれた男は既婚者だった。その妻がヴェラを疑い、ようやく警察に通報した。家宅捜索に出向いた警察は仰天した。その地下室には32もの棺が並んでいたのだ。つまり、ヴェラ・レンツィという女は、殺害した愛人すべての遺体を保存していたのである。


 すべては彼女の異常な嫉妬深さが為せる業だった。少しでも気のない素振りを見せたらアウト。砒素を盛られてしまうのだ。

 彼女はまた、実の息子も殺害していた。地下室の棺を発見されて、已むなく殺害したのである。2人の夫も含めて合計35人なり。いやあ、殺した、殺した。盛大に殺した。ここまで盛大に殺してくれると、却って清々しく思えてしまう。


 なお、ヴェラは夜な夜な地下室に出向き、肘掛け椅子に腰を降ろすと、累々と並ぶ棺を眺めながら一人悦に入っていたという。真偽は不明だが、真実ならば変態だ。


 結局、ヴェラは35件の殺人で有罪となり、終身刑を宣告された。獄中で死亡したようだが、いつ死んだのかは判らない。

出典:殺人博物館〜ヴェラ・レンツィ

	

ヴィクトル・アルディッソン

アルディッソンは精神薄弱で、あきらかに精神病者であった。事件が発覚してからは一生を病院に監禁されて過ごしたが、従順な男で医師の質問に協力的であったため、資料として残っているのである。

 彼は3歳から60歳までの女性の死体を墓から掘り起こしてきたが、中でも13歳の美少女の首がお気に入りで、彼はこれを「フィアンセ」と呼び、十字架や天使の像などと一緒に、祭壇のような場所で大切に保管した。しかし性的な凌辱はいっさい加えず、ただときどき胸に抱いたりして、やさしく愛撫するだけであったという。

 彼はほかにも多くの女性を掘り出しては納屋に飾っていたが、それらは「フィアンセ」にはなり得ず、せいぜい「恋人」くらいの存在であったようだ。しかし帽子やスカーフで飾るなどの〈思いやり〉は見せていたようだ。


 彼は文盲で、国歌すら歌えないような男だった。しかも味覚も嗅覚もほとんどなかったようで、舌の上に塩を乗せても硫酸を乗せてもまったく区別がつかず、腐った肉でも平気で食べた。また、鼻孔に胡椒を詰められても「苦しそうな顔ひとつしなかった」という。痛覚もほとんどなく、手の甲を針で刺されても「まあ、我慢できるな」とぼんやり答えただけだった。これはロンブロオゾの唱えた「生来犯罪者=先祖返り説」を連想させる話だ。


 彼は女性の死体なら選り好みせず、「どんな女でもよかった」と言っているが、一度だけ拒否した場合があった。その死体は、片足だったのである。女の脚は彼にとって、もっとも魅力ある箇所だったらしい。

 アルディッソンはネクロフィリアであると同時に、脚のフェティシストでもあったのだろう。

出典:

	

ジョン・レジナルド・クリスティ

1898年(4月)、イギリス(ヨークシャー)に生まれたジョン・クリスティは静かで人気のない子供で、

仲間たちからも無視されていた。10代には性的な未成熟のせいで「レジー・ノー・ディック(チンチン無しのレジー)」と

仇名された。口汚い状況の中で成長して、彼は劣等感と女性不信に陥った。

彼は衝動的な嘘つきで、興味を引く手間なら何でも言った。彼は小さな犯罪へとずるずると陥った

(15歳で学校をやめて、警察の事務員となったが、窃盗でクビになった。それから父親の絨毯会社に勤めたが

、盗みで捕まり家を飛び出した。第一次大戦に従軍して毒ガスを受け、5ヶ月間失明状態だったし半年間失語症になった)

が、盗みで刑期を勤めているにも関らず、20代のときに結婚し(1920年)、定職を得た(郵便局で働いたが、

為替を盗んで7ヶ月刑務所入りとなった)。彼が55歳で逮捕されたときには予備役警察の特別警察官という地位に

上っていた(弱い物いじめで有名で、威張り散らしていた)。


 1949年、ロンドンの二階建てのフラットのクリスティーの上の階の住人、ろくに読み書きもできない

ティモシー・エヴァンズ(トラック運転手)が彼の妻と娘を殺したと自白した(自首して自白したんだけど、

下水管からは何も発見されず、2度目の調べで家の裏の物置から、妻のベリル・エヴァンズと幼い娘のジェラルディンの

死体を発見した)。後に彼はクリスティーを巻き込み(妻はクリスティの行なった妊娠中絶の途中で死に、

クリスティーは娘を養女に出そうと申し出たという)、クリスティーはいかなる犯罪への関与も激しく否定した。

エヴァンズのでたらめな告発は捜査されることもなく、彼はすぐに、2件の殺人のために絞首刑となった。

そして、1953年(3月20日)、クリスティーが彼の階を立ち退いた後で、新しい借家人が壁紙で覆われた戸棚の中から

3人の女性(1953年1月2日のリタ・ネルソン、1月12日のキャスリーン・マロニー、3月3日のヘクトリナ・マクレナン)

の死体を発見し、4人目が床下から(女を連れ込むのに邪魔になった妻、1952年12月14日に殺された)、

さらに2つの死体が庭から見つかった(最初の犠牲者で妻が親戚を訪ねて出かけた留守に招き入れられた

ルス・フュアーストと、妻の留守に訪れたクリスティーの会社の同僚ミュリエル・エディー)。ひとりはクリスティーの妻で

残りは売春婦だった。みな、絞め殺され、記念品として陰毛が取り去られていた。


 クリスティーはただちに逮捕され(3月31日)、裁判にかけられた。彼は性行為のために殺したと証言した。

女性たちを家に招待し、酔わせて強姦して殺した。彼は犠牲者から取った陰毛で作ったハケのコレクションを確認した

(自分の作った物であると認めたってこと)。彼はエヴァンズ夫人(ベリル・エヴァンズ)の殺害も認め、

ティモシー・エヴァンズが彼の代わりに絞首刑にされる用意したことをも認めたが、エヴァンズの子供の殺害は否認した。

有罪と判決され、クリスティーは1953年(1月15日)にペントンヴィルで絞首刑となった。

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ジョン・クリスティーと妻のエセル

エヴァンス事件(エヴァンスじけん、Evans Case)は、1949年にイギリスのロンドンで起こった冤罪事件。イギリスの死刑制度廃止の発端となった。

ティモシー・ジョン・エヴァンス(Tomothy John Evans)は、ロンドンのノッティング・ヒル、リリントン・プレース(Rillington Place)の自分の住まいで妻と幼い娘を殺害したかどで訴えられ、1950年1月、公判に付され、娘の殺害で絞首刑の判決を言い渡された。

ジェラルド・シェイファー

1972年7月、2人の少女がフロリダ州でヒッチハイクをしていた。やがて一台の車が止まった。運転手の名はジェラルド・シェイファー。保安官代理で、そのとき制服を着ていた。

 彼はこの町にヒッチハイク規制があることを教え、ふたりを叱ったものの警察には連行せず、彼女らの友人のアパートまで送りとどけてあげる、と言った。少女たちは感謝した。シェイファーは礼儀正しく、ほがらかで、その上なにしろ保安官代理なのだ。疑う要素はまったくなかった。

 長い道のりを走りながらおしゃべりするうち、ふいにシェイファーがこう言った。

「そういやあ、島に古いスペインの遺跡があるんだ。見にいこうか」

「ほんと? すてき。見たいわ」

 車は方向転換した。そしてしだいに舗装されていないような細い道路に乗り入れ、雑木林の中を進んでいった。そのときシェイファーの態度が急変した。

「なあ、白人奴隷を欲しがってる男って世の中にどれだけいると思う?」

「え?」

「あんたら2人を売りさばいたら、どれだけの金になるだろうね」

 ふたりは怯えて黙ったが、シェイファーは脅しをやめなかった。身代金を取るのと売っちまうのと、どっちがもうかるかな? いやいっそここに2人とも埋めちまったほうが簡単でいいかもな、など。

 およそ一時間近くにもわたって二人の少女をねちねちといたぶった挙句、シェイファーは車をとめて、ふたりに手錠をかけた。そして両膝をロープで縛り、猿ぐつわをはめた。彼は太い枝ぶりのいい木にロープをひっかけて輪をつくり、ふたりの首にかけた。

「おまえらを買いたいって男と会ってくるから逃げるなよ」

 そう言いのこしてシェイファーは立ち去った。

 だがふたりの少女は死にものぐるいでロープをほどき、手錠をはめたまま高速道路まで走って逃げた。ふたりに逃げられたことを知ると、シェイファーはすぐに上司に電話をかけた。

「ばかなことをしてしまいました。じつは……」

 彼はことの次第を話し、『ヒッチハイクの危険をわからせるため』芝居をうったのだ、と説明した。だがこれは当然誰にも信じてもらえず、彼は警官を免職になった。裁判までは保釈の身だったがその裁判は三ヶ月以上も延期になった。それは大きな間違いだった。


 それから二ヵ月後、新たにふたりの少女が行方不明になった。少女たちの母親はシェイファーを警察で面接して、娘を誘拐したのはたしかにこの男だと証言した。が、シェイファーはかたくなに否認した。

 少女たちの死体は、隣接州の砂浜に埋められていた。手足と頭を切断され、かなり腐敗もすすんではいたものの、歯型などから身元はすぐにわかった。それから、ふたりが12メートルもある大樹の枝から、ロープで首を吊られて死んだのだということも。


 数日後、シェイファーの自宅が捜索された。そこからは約6人分の行方不明者の遺留品――金歯やアクセサリー、下着など――が発見された。

 同時に見つかったものがもうひとつあった。それはシェイファー自作の「小説」だった。そのどれもに、首吊りの描写があった。文章はけっして上手なものではない。だが「その部分」にさしかかると、急に筆は熱をおびた。

 直筆で書かれたものも、タイプで打たれたものもあった。だがそのすべてが「女の首を吊り、そのあと屍姦を愉しむ」というストーリイだった。

 シェイファーが魅力を感じる女とはあきらかに死んだ女、それも「吊るされた女」でなければならなかったのである。

 彼は、二度の終身刑を宣告された。

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ジェラルド・シェイファー

彼は警察官という立場を利用して女性、しかも必ず二人組を郊外へと連れ出し、木などに吊るし上げたうえで首を締めたり緩めたりしていたぶった。さらに「一人だけは助けてやる」と言って被害者に奉仕を要求、散々肉体を弄んだ挙句結局は二人とも絞殺するのが彼の犯行パターンだった。お気に入り詳細を見る 修正

アナトリー・モスクヴィナ

この男はアナトリー・モスクヴィナという名の45歳で、警察によると男の一人暮らしのアパートの部屋には、すでに骨格だけとなった女性の遺体が少なくとも26体分おいてあり、その多くがドレスやストッキングなどを着用させられていたといいます。またテディベアの面を付けられている遺体もありました。

遺体はいずれも15歳から26歳の女性と推定され、モスクヴィナは夜中に墓地に訪れては墓を掘り起こし、これらの遺体をビニール袋に入れて自宅に持ち帰っていました。 調べによると、モスクヴィナはこれまでに750を超える墓を訪れたといい、墓地のベンチで眠ったり棺の中で眠ったこともあったということです。


13の言語を話し、とりわけ歴史に興味があり、博物館などで講義をおこなったこともあるというモスクヴィナは、周囲からは「天才」とよばれていました。

出典:忘れっぽい天使, この男はアナトリー・モスクヴィナという名の45歳で、警察によると男の一人暮らしのアパートの部屋には、す...

	

アナトリー・モスクヴィナ

ロシア西部、ニジニノブゴロド市で、29体の女性の遺体を墓から掘り出し、自宅アパートの部屋に陳列していた一人暮らしの男、アナトリー・モスクヴィナ(45)

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Sharetube