1人の女性と32人の男性が共同生活した「アナタハンの女王事件」とは?
アナタハンの女王事件
アナタハンの女王事件(アナタハンのじょおうじけん)とは1945年から1950年にかけて太平洋マリアナ諸島に位置する孤島アナタハン島で発生した、多くの謎が残る大量死亡事件。別名「アナタハン事件」「アナタハン島事件」。
アナタハン島とは
アナタハン島(Anatahan)はマリアナ諸島の火山島。北緯16度、東経145度に位置し、南東約53kmにファラリョン・デ・メディニラ島、北北東約35kmにサリガン島がある。島の形は東西12km、南北4kmと東西に長い島で、島の最高点は787m。面積は31.21平方kmで、北部諸島ではパガン島に次いで大きい。
1950年6月28日、1人の女性が米海軍のカッター「ミス・スージー号」に救助された。この女性は沖縄出身の比嘉和子さん(当時27歳)という名前で、マリアナ群島のアナタハン島で暮らしていた。落下傘の布で作ったブラウスと、兵隊のズボンを縫い縮めたのものを着ていた。1939年、まだ16歳だったK子さんは、南洋にいた兄を頼ってサイパンへ渡った。しばらく、そこで暮らした後、マリアナ群島のパガン島に移り、カフェで女給をしていた。その島で南洋興発会社が経営するコプラ栽培園の労務監督をしていた沖縄出身の青年Sさん(当時25歳)と出会う。2人は結婚し、1944年にSさんの転勤の都合でサイパン北方のアナタハン島に移った。
Sさんはこの島で上司についてヤシ林の経営をすることになったのだが、しばらくしてパガン島に残してきた妹を迎えに行くために島を出ていった。その頃サイパン攻撃が開始され、彼の消息はそれきり途絶える。
当時のアナタハン島の人口はわずか47名。原住民であるカナカ人45人と、比嘉和子さんとSさんの上司である農園技師・Hさんだけだった。Sさんが島を出ていってからの比嘉和子さんはこのHさんと主に行動を共にすることになった。Hさんにもサイパンに妻子がいたが、2人はやがて夫婦生活を始めた。
出典:アナタハンの女王事件
1944~1945年
1944年6月、当時日本の委任統治領だったアナタハン島には、島民(カナカ族
)約70人を雇ってヤシ
農園の経営をしていた日本企業「南洋興発
」の出張所があった。日本人は、ここに派遣されている農園技師(当時29歳)とその部下、そして部下の妻・比嘉和子
(当時24歳)だったが、和子の夫が妹をパガン島
に迎えに出かけた後にサイパン島
攻撃が開始され戦闘が激化したため帰らないままとなっており、島の2人はこのような状況の中、夫の上司と部下の妻という関係の中で親密になっていた。
そこに軍に徴用された船「兵助丸」「曙丸」「海鳳丸」がアナタハン島沖で米軍機の空襲を受け、軍人
10人、軍属
21人の、日本人男性ばかり計31人がアナタハン島に漂着した。彼らの多くが20歳前後で、最も若かったのは16歳であった。
その後も米軍の空襲
が続き、船や小舟まで焼き尽くされ交通手段を断たれてしまった。こうして、漂着してきた男性多数のアナタハン島での生活が始まった(日本人生存者数:男32人、女1人)。
島は農場として開発されていたものの、元から居た島民を合わせて100人程となり、食糧の余裕がなくなったため、男たちは乗っていた船ごとに集落を結成して里芋
の栽培などを始めた。全員生きるのに必死で、食べ物を求めて駆けずりまわる毎日だった。
7月、暴風雨の中で高波にさらわれた1人が行方不明になる(日本人生存者数:男31人、女1人)。
その後、日本軍の統制もなくなったことでカナカ族の島民たちは密かに島を脱出し、日本人32人だけとなった。
1945年8月の終戦を迎え、米軍は島に向けて拡声器
で日本の敗戦を知らせたが、誰も信じる者はいなかった。
戦争が終わったため、米軍による空襲もなくなり、島民も逃げ出していたので、食糧に余裕が出るようになった。そのうち、生活が原始人のようになり、男達は全裸、和子も上半身を露わに腰ミノひとつという姿で島を歩きまわるようになった。
最年長の男は、和子を巡る男たちの争いを危惧し、農園技師と和子に結婚した夫婦を装うことを頼み込む。正式な夫婦と装えば、争いの種が無くなると考えたためである。帰還後に証言した生還者の殆どが農園技師と和子が正式な夫婦であったと思っていた。
1946年
1946年2月、兵助丸船長が病死(日本人生存者数:男30人、女1人)。
8月、農園技師と和子はB-29
の残骸を発見し、パラシュート
と缶詰を回収。その後、皆で墜落現場へ行き、パラシュートやガソリンタンク
などを回収。パラシュートの布地で服を作ったり、ガソリンタンクを2つに切って鍋を作ったりした。
その時、機体のジュラルミン
からナイフ
を作った者がいた。また海軍軍人の2人が、B29の残骸の中から壊れたピストル
3挺と実弾70発を拾った。海軍2人組はそれらを解体・修理し、2挺のピストルを組み立てた。
まもなく、海軍2人組の内の1人と仲の悪かった男が変死した。「木から落ちたのが原因」ということだったが、2人組以外に目撃者はいなかった(日本人生存者数:男29人、女1人)。
農園技師の嫉妬に愛想を尽かしていた和子は、別の男と駆け落ちして山中深くに逃げるが、狭い島のため簡単に発見されて、農園技師のもとに連れ戻された。以来、男たちの和子争奪戦が激化する。
海軍2人組の内の1人が和子に近づいて妻になることを要求し、拒絶したら農園技師を殺害すると脅す。殺されたくなかった農園技師は和子に相手のほうに行くことを依頼。そして、何故か農園技師、2人組、和子の4人で暮らすようになり、和子は同時に3人の夫を持つ身になった。
1947~1949年
1人の女性を3人が取り囲む生活が支障を来たすことになった。1947年秋、海軍2人組に仲間割れが生じ、1人が射殺される(日本人生存者数:男28人、女1人)。
これに驚いた農園技師は、射殺した男に和子を完全に譲り渡すことになった。ところが、その3ヵ月後、射殺した男が行方不明となった。この行方不明について、農園技師と和子は「夜釣りをしていて海に落ちて死んだ」と言ったが、泳ぎの達者な男だったため、死んだことを信じた者はいなかった。現在もこの男の死因には不明である(日本人生存者数:男27人、女1人)。
この男が行方不明になってから、すぐに和子と農園技師はよりを戻したが、その半年後には農園技師も死亡。当時和子に入れあげていたコックは「農園技師は食中毒
で死亡」したと述べた。海軍2人組が使っていたピストルを持っていたコックによる射殺の疑いが強いといわれているが詳細は不明である(日本人生存者数:男26人、女1人)。
1949年
2月までに、海鳳丸水夫長が崖から転落死し、続いて曙丸水夫長が食中毒で死亡した。2人とも不審な死に方だったが、事故であれ殺人であれ、彼らに調べる術はなかった(日本人生存者数:男24人、女1人)。
そして、コックが行方不明になった。目撃者によると「大波にさらわれた」ということだったが、溺死体はあがらなかった(日本人生存者数:男23人、女1人)。
異常な事態を収拾すべく、最年長の男が「和子さんに正式な夫を選んでもらい、みんなでこれを祝福して、もう一切邪魔はしないと約束しあうべきだ」と提案。和子と他の男達全員がこの提案を受け入れ、和子は最初の駆け落ち相手を選んで結婚することにした。簡単な結婚式が行われ2人を祝福した。争いの元になったピストルは、話し合いの結果、2挺とも壊して海に沈めることになった。
1950~1951年
1950年、しかし、それでも争いが収まらなかったため、和子が全ての原因であるとして、大多数の男たちによって彼女を殺害する方向に男たちの意見が傾くようになった。しかしその事をある男が和子に事前に密告
したため、和子は島の中を逃亡し続けることになった。
6月、米国船が救出のため島に来る。男達は米軍の策略として山中に隠れるが、33日間逃亡し続けた和子は脱出した。この船は残留日本人救出のために米軍が差し向けたもので、船には日本人も乗船していた(日本人生存者数:男22人、女0人)。
8月、和子と結婚した男が病死した(日本人生存者数:男21人、女0人)。
翌1951年
1月、和子が前年7月に結婚相手宛に書いた手紙が海岸に届く。曙丸船長が手首の大怪我が元で死亡(日本人生存者数:男20人、女0人)。
6月には飛行艇が救出を呼びかけるビラを撒き、また米軍船が新聞や手紙を届けに来た。これに男1人が乗り込んで脱出した。6月30日
、終戦を現実のものと受け容れた、残った19人全員が米軍船に乗り込んで脱出した。20人は7月6日
に日本に到着した。
その後
アナタハン島に残った男たち比嘉和子さんの証言によって氏名などが明らかになると、その家族からの手紙や新聞が島へ届けられた。それでもこれを米軍の謀略と見る人が多かった。全員が集まって、「日本が負けたなどということを信用してはならない」と話し合われている。
男達は空襲で沈んだカツオ漁船群「兵助丸」「あけぼの丸」「第七海鳳丸」「胡丸」の乗務員・兵士らで、アナタハン島にたどり着いた仲間の死については事故死と言っていた。しかし、証言がどうも合わず、不審な点が見られた。
出典:アナタハンの女王事件
帰国後
島に流れ着いた4隻の漁船の、他のメンバーについての尋問が行われたが、生還して来た男たちは、みんな「彼らは事故死した」と証言した。だがより詳しく聞いてみると、それぞれで話が食い違い、更に追求した結果、アナタハン島で和子を巡っての殺人や行方不明事件があったことが明らかになった。このことも大々的に報道され、新聞や雑誌では和子のことを「アナタハンの女王」「32人の男を相手にハーレムを作った女」「女王蜂」「獣欲の奴隷」「男を惑わす女」などと書きたてた。
中には、生きるために仕方なかったと同情的な記事もあったが、大半の記事は和子を非難・中傷したり、事件を面白くするような書き方であった。
人々の好奇の目は和子に集中し、和子のブロマイドが爆発的に売れた。日本はアナタハンブームになり、当分の間、話題で持ちきりとなった。
和子には舞台の話が持ちかけられ、和子の主演で「アナタハン島」という芝居が作られ、昭和27年(1952年)から2年間、全国を巡業した。
また映画「アナタハン島の真相はこれだ!」が和子の主演で製作された。ハリウッドの映画界・スタンバーグ監督による「アナタハン」も完成し、和子は時の人となった。
ただ、和子は、超がつくほどの有名人にはなったものの、それは決して良い意味で名前が知られたわけではなかった。
男をたぶらかして何件もの殺人を招いた悪女のような書き方をされており、和子は芝居が落ちついてからは沖縄で「カフェ・アナタハン」を開いて商売をしていたのだが、相変わらずの報道に沖縄に居づらくなり、本土の方へ引っ越してきた。
東京でしばらくストリッパーをやっていたが再び沖縄へ帰り、34歳の時に再婚した。新たな主人と、たこ焼きとかき氷の店を始め、店も繁盛して、ようやく平穏な生活を取り戻すことが出来た。和子が40代半ばの時に夫が死去し、和子自身も49歳で脳腫瘍により、その波乱の人生を閉じた。
その他
渡邉恒雄は当時週刊のタブロイド紙であった読売ウイークリーの若手記者時代に、アナタハンで暮らす日本人の情報をいち早くつかんでいた。当てもなく訪ねた三浦半島城ヶ島の漁師から偶然仕入れた話だったが、デスクが読売新聞に報告せず、ウイークリーの特ダネにしようとした結果、同紙が出る前日に毎日新聞が同じ話を社会面のトップで報じたため、特ダネを逃している。
映画【アナタハン島の真相はこれだ】
戦争末期、マリアナ諸島のアナタハン島に漂着した日本人男性たちは、島に住んでいた唯一の日本人女性へ欲望のまなざしを向け、悲劇へと発展する…。実話を映画化したもので、当事者である比嘉和子本人が主演するという異色作。
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小説「東京島」の元ネタでもある
1945年から1950年にかけて、マリアナ諸島のアナタハン島で起きたアナタハンの女王事件をモデルに創作された作品。『新潮』(新潮社)にて、2004年1月号から2007年11月号まで断続的に計15回連載され、2008年に刊行された。第44回谷崎潤一郎賞受賞作。
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