小説よりも奇妙な本当にあった事件まとめ
不死身の男ミリン・ダヨ
1947年6月23日、米タイムス紙上に奇妙な記事が掲載された。空飛ぶ円盤の話ではない(※)。『奇蹟の男(Miracle Man)』そう題打たれて紹介されていたのは、とあるオランダ人の男の話だった。記事は次のようにはじまる。「苦難の時、"奇蹟の男"は兆しと驚きを示すため、メッセージを携えてやってくる。先週から、スイスのチューリッヒは"奇蹟の男"の話題で持ちきりだ。毎晩毎晩、コルソにある町一番の音楽ホールでは、35歳のオランダ人が観衆たちを魅了しているのだ。男の名はミリン・ダヨ。その奇蹟の男は毎晩ステージの上に立ち、剣やら槍を、生きたまま胸に突き立てているというのだ!」「”私は芸術家ではない。預言者である。神を信じるのならば、自分の身体を支配することが出来る。はじめは誰も私の言葉を信じようとしないが、この不死身の身体を見て、人々は私の言葉を信じるのだ。”そう語るダヨのショーは、大成功を納めているようだ。しかし問題もある。それは代金を支払う前に卒倒してしまう観客が絶えないことだ。」
今日、このミリン・ダヨの名を覚えている者はほとんどいない。それは彼という"現象"が、今から60年程前、スイスとオランダというごく局所的な地域で起きた、たった二年余りの”出来事”だったからだ。1947年当時、彼の存在は"第二の救世主"などとしてメディアに大々的に報じられたが、それは極めて限られた範囲での話題だったのだ。当時、ダヨのパフォーマンスを目の当たりにした目撃者の一人は、ダヨの事を次のように回想する。
「ミリン・ダヨは上半身裸のまま、部屋の真ん中に静かに立っていた。すると彼の後ろに立っていた助手がダヨの背後に近寄って、力任せに背中へ剣を突き立てた。丁度彼の腎臓のあたりだった。みんなただ息を飲んだ。実験に経ちあった医師も、生徒たちも、ただ口をポカンと空けていた。疑いようもなく、確かに長さ80cmの剣(フェンシング用のフルーレ)が、彼の背中から突き刺さっていたんだ。その先端は手幅より長く、彼の胸から突き出していた!でも血は一滴も流れていなかった。実験に立ちあった医師たちもこんなことは一度も見たことがない、という様子だった…。」
ロズウェル事件
1947年7月4日、アメリカ・ニューメキシコ州のロズウェルから70マイル(約112km)離れた地点に何らかの飛行物体が墜落した。この処理のために、ロズウェル陸軍飛行場から軍関係者が出動し、墜落した航空機の残骸(ざんがい)と、4体か5体の遺体を回収した。
<※ロズウェル陸軍飛行場は、後にウォーカー空軍基地となり、現在では閉鎖(1967年に閉鎖)されている。
墜落現場は、ロズウェルからは結構離れていたが、ロズウェル陸軍飛行場が主にこの処理に当たったために、この事件はロズウェル事件と呼ばれる。>
7月8日、軍は「ロズウェル付近の牧場から、壊れた空飛ぶ円盤を回収した」と発表した。
この発表を受けて、ロズウェル・デイリー・レコード新聞が「軍が空飛ぶ円盤を回収」と紙面に掲載し、AP電によって世界中に知れ渡ることとなった。
しかし軍は最初の発表から数時間後に前言を撤回し、
「回収したものは、空飛ぶ円盤ではなく、気象を観測するための気球だった。」と改めて発表した。
「何だ、そうだったのか。」ということで世間の興味は一気にさめ、この事件はこれで終了した。
このまま何もなければ、この事件は歴史の中に埋もれていたはずであるが、事件から31年経った1978年、UFO研究家のスタントン・フリードマンが、ロズウェルであの時、航空機の回収に関わったというジェシー・マーセル少佐に取材を行った。
マーセル少佐は、
「あの時ロズウェルで回収したのは、異星人の乗り物だった。」
と発言し、この発言を含め、フリードマンの取材はテレビでも放映された。また、1980年にはこのマーセル少佐のインタビューが新聞にも掲載された。
「あの時の事件で、UFOが回収されていた」と、大変な話題になり、ロズウェル事件は再び世界の注目を集めることとなった。
そして1984年のある日、アメリカ・ロサンゼルスのテレビプロデューサーであるジェイミー・シャンドラの元へ、差し出し人不明の手紙が届いた。
中には手紙とフィルムが入っており、手紙の内容はロズウェル事件に関するものであった。
手紙には「MJ12(マジェスティック トゥエルブ)に関する説明書」というタイトルの書類が同封されていた。
「MJ12」とは、あの当時、ロズウェル事件を処理した、それぞれの部門のトップ12人で構成される、秘密の組織であるという。
あの時、ロズウェルでUFOと異星人の死体を回収して以降、アメリカ政府は極秘のうちに異星人の技術の解明を進めており、更には異星人と交渉して、技術の提供を受ける協定を結んだと手紙には記されていた。
ロズウェル事件は、事件から30年以上も経って突然眠りから覚めたように、大変な話題となり、騒ぎとなった。
アメリカのみならず世界中のあちこちのメディアでも紹介され、多くの本が出版され、テレビや雑誌で紹介されて世界規模の有名な事件となった。
ロアノーク植民地集団失踪事件
1584年、時のイギリス女王エリザベス1世の寵臣、ウォルター・ローリーが率いるアメリカ大陸探検隊が、ロアノーク島に辿り着いた。およそ6週間の滞在を経て、この地が植民に適しているという感触を得たローリーは、帰国後、早速植民地建設計画を練り上げ下院へ提出する。女王はローリーに対し、サーの称号と、発見した地域を自身にちなんでヴァージニアと呼ぶ許可を与えてこれに報いた。1585年7月、ローリーのいとこのサー・リチャード・グレンヴィルと、アイルランド戦役で経験を積んだラルフ・レーンが率いるおよそ600名からなる探検隊が、再びロアノーク島に到着する。ローリーの報告とは裏腹に、ロアノーク島近辺は決して植民に適しているとは言えなかった。近海は島だらけで、浅瀬が多く、常に座礁の危険があったのだ。取り敢えず一隊はロアノーク島北部に砦を建設し、グレンヴィルは進捗状況を報告するため帰国。一方、107名の男と共に砦に残り守備を担っていたレーン達は、現地のインディアンと衝突して激戦を繰り返していた。彼らは戦いには長けていたものの、植民に関しては素人同然であったため、食料の欠乏を如何ともしがたく、すっかり植民の意欲を失っていた。サー・フランシス・ドレーク率いる大探検隊に救出されると、これ幸いとばかりに一緒に帰国してしまう。
ロアノーク島への最初の植民はみじめな結果に終わったが、1587年5月8日、今度は前回の航海に測量士兼画家として参加していたジョン・ホワイトが率いる一団150人が、再度ロアノークへ向けて出発する。ロアノーク島に到着した一団は植民を進め、ホワイトの娘が女児を出産し、植民地にちなんでヴァージニアと名づけられるといった慶事もあった。ちなみに彼女は植民地で生まれた最初の白人である。しかし、インディアンとの衝突が数を増すなど、状況は深刻になる一方であったことから、ホワイトはローリーに救援隊派遣を求めるべく帰国する。ところが当時のイギリスは、来るべきスペイン無敵艦隊との決戦に向け一国を挙げて準備が進行中。遥か西の植民地などに余計な船と人員を割いている余裕などあるはずもなく、救援は先延ばしとなる。
ようやくホワイトが救援隊と共にロアノークに到着したのは1590年8月17日。しかし島は山火事がちらつく他は不気味に静まり返っていた。イギリスの音楽を演奏し、何度も呼びかけるも、全く返事が無い。翌18日にホワイト達は島に上陸、捜索を始めたが、小屋や防護柵は雑草に覆われているばかりで、娘も、孫娘も、他の仲間も、誰一人姿を見出せない。
一体、皆はどこに行ってしまったのか。やがて一つの標識が見つかり、きれいな大文字ではっきりこう記されていた。
「CROATOAN」
ルートヴィヒ2世の謎の最期
ルートヴィヒ2世 (Ludwig II., 1845年8月25日 - 1886年6月13日)は、第4代バイエルン国王(在位:1864年 - 1886年)。「狂王」の異名で知られる。若い頃は美貌に恵まれ、多くの画家らによって描かれた。1870年、普仏戦争で弟オットー1世が精神に異常をきたした。ルートヴィヒはますます現実から逃れ自分の世界にのめり込み、昼夜が逆転した生活を送るようになった。王は一人で食事を取り、あたかも客人が来ているかのように語っていたり、夜中にそりに乗って遊んでいたところを地元の住民に目撃されたと伝えられている。
危惧を感じた家臣たちはルートヴィヒ2世の廃位を計画し、1886年6月12日に彼を逮捕し廃位した。代わりに政治を執り行ったのは叔父の摂政ルイトポルト王子であった。ルートヴィヒはベルク城に送られ、翌日の6月13日にシュタルンベルク湖で、医師のフォン・グッデンと共に水死体となって発見された。その死の詳細については未だ謎のままである。その知らせを受けたエリーザベト皇后は「彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした」と述べている。
生前ルートヴィヒは「私が死んだらこの城(ノイシュヴァンシュタイン城)を破壊せよ」と言い残した。それは彼が城を自分の世界にとどめたかったという思いからきた言葉であったが、摂政ルイトポルトも地元の住民らも城を壊さずにそのまま残し、現在は観光施設を兼ねた文化財として活用されている。