• follow us in feedly
scroll_icon
shuffle_button
小説よりも奇妙な本当にあった事件まとめ

サムネイル出典:

殿堂

小説よりも奇妙な本当にあった事件まとめ

Author:
johndoejohndoe
Posted date:
小説よりも奇妙な本当にあった事件まとめ

不死身の男ミリン・ダヨ

1947年6月23日、米タイムス紙上に奇妙な記事が掲載された。空飛ぶ円盤の話ではない(※)。『奇蹟の男(Miracle Man)』そう題打たれて紹介されていたのは、とあるオランダ人の男の話だった。記事は次のようにはじまる。「苦難の時、"奇蹟の男"は兆しと驚きを示すため、メッセージを携えてやってくる。先週から、スイスのチューリッヒは"奇蹟の男"の話題で持ちきりだ。毎晩毎晩、コルソにある町一番の音楽ホールでは、35歳のオランダ人が観衆たちを魅了しているのだ。男の名はミリン・ダヨ。その奇蹟の男は毎晩ステージの上に立ち、剣やら槍を、生きたまま胸に突き立てているというのだ!」
「”私は芸術家ではない。預言者である。神を信じるのならば、自分の身体を支配することが出来る。はじめは誰も私の言葉を信じようとしないが、この不死身の身体を見て、人々は私の言葉を信じるのだ。”そう語るダヨのショーは、大成功を納めているようだ。しかし問題もある。それは代金を支払う前に卒倒してしまう観客が絶えないことだ。」

今日、このミリン・ダヨの名を覚えている者はほとんどいない。それは彼という"現象"が、今から60年程前、スイスとオランダというごく局所的な地域で起きた、たった二年余りの”出来事”だったからだ。1947年当時、彼の存在は"第二の救世主"などとしてメディアに大々的に報じられたが、それは極めて限られた範囲での話題だったのだ。当時、ダヨのパフォーマンスを目の当たりにした目撃者の一人は、ダヨの事を次のように回想する。
「ミリン・ダヨは上半身裸のまま、部屋の真ん中に静かに立っていた。すると彼の後ろに立っていた助手がダヨの背後に近寄って、力任せに背中へ剣を突き立てた。丁度彼の腎臓のあたりだった。みんなただ息を飲んだ。実験に経ちあった医師も、生徒たちも、ただ口をポカンと空けていた。疑いようもなく、確かに長さ80cmの剣(フェンシング用のフルーレ)が、彼の背中から突き刺さっていたんだ。その先端は手幅より長く、彼の胸から突き出していた!でも血は一滴も流れていなかった。実験に立ちあった医師たちもこんなことは一度も見たことがない、という様子だった…。」

出典:X51.ORG : ミリン・ダヨ — 不死身の身体を持つ奇蹟の男

	

不死身の男ミリン・ダヨ

			
	

ロズウェル事件

1947年7月4日、アメリカ・ニューメキシコ州のロズウェルから70マイル(約112km)離れた地点に何らかの飛行物体が墜落した。

この処理のために、ロズウェル陸軍飛行場から軍関係者が出動し、墜落した航空機の残骸(ざんがい)と、4体か5体の遺体を回収した。


<※ロズウェル陸軍飛行場は、後にウォーカー空軍基地となり、現在では閉鎖(1967年に閉鎖)されている。

墜落現場は、ロズウェルからは結構離れていたが、ロズウェル陸軍飛行場が主にこの処理に当たったために、この事件はロズウェル事件と呼ばれる。>


7月8日、軍は「ロズウェル付近の牧場から、壊れた空飛ぶ円盤を回収した」と発表した。

この発表を受けて、ロズウェル・デイリー・レコード新聞が「軍が空飛ぶ円盤を回収」と紙面に掲載し、AP電によって世界中に知れ渡ることとなった。

しかし軍は最初の発表から数時間後に前言を撤回し、

「回収したものは、空飛ぶ円盤ではなく、気象を観測するための気球だった。」と改めて発表した。

「何だ、そうだったのか。」ということで世間の興味は一気にさめ、この事件はこれで終了した。

このまま何もなければ、この事件は歴史の中に埋もれていたはずであるが、事件から31年経った1978年、UFO研究家のスタントン・フリードマンが、ロズウェルであの時、航空機の回収に関わったというジェシー・マーセル少佐に取材を行った。


マーセル少佐は、

「あの時ロズウェルで回収したのは、異星人の乗り物だった。」

と発言し、この発言を含め、フリードマンの取材はテレビでも放映された。また、1980年にはこのマーセル少佐のインタビューが新聞にも掲載された。

「あの時の事件で、UFOが回収されていた」と、大変な話題になり、ロズウェル事件は再び世界の注目を集めることとなった。

そして1984年のある日、アメリカ・ロサンゼルスのテレビプロデューサーであるジェイミー・シャンドラの元へ、差し出し人不明の手紙が届いた。

中には手紙とフィルムが入っており、手紙の内容はロズウェル事件に関するものであった。

手紙には「MJ12(マジェスティック トゥエルブ)に関する説明書」というタイトルの書類が同封されていた。

「MJ12」とは、あの当時、ロズウェル事件を処理した、それぞれの部門のトップ12人で構成される、秘密の組織であるという。

あの時、ロズウェルでUFOと異星人の死体を回収して以降、アメリカ政府は極秘のうちに異星人の技術の解明を進めており、更には異星人と交渉して、技術の提供を受ける協定を結んだと手紙には記されていた。


ロズウェル事件は、事件から30年以上も経って突然眠りから覚めたように、大変な話題となり、騒ぎとなった。

アメリカのみならず世界中のあちこちのメディアでも紹介され、多くの本が出版され、テレビや雑誌で紹介されて世界規模の有名な事件となった。

出典:No.155 世界で最も有名なUFO回収事件 〜 ロズウェル事件

	

記者会見を行った時の陸軍関係者

			

墜落したUFO

			

ロズウェル・デイリー・レコード新聞は、 当時の事件を一面で伝えた。

			

ロアノーク植民地集団失踪事件

1584年、時のイギリス女王エリザベス1世の寵臣、ウォルター・ローリーが率いるアメリカ大陸探検隊が、ロアノーク島に辿り着いた。およそ6週間の滞在を経て、この地が植民に適しているという感触を得たローリーは、帰国後、早速植民地建設計画を練り上げ下院へ提出する。女王はローリーに対し、サーの称号と、発見した地域を自身にちなんでヴァージニアと呼ぶ許可を与えてこれに報いた。

 1585年7月、ローリーのいとこのサー・リチャード・グレンヴィルと、アイルランド戦役で経験を積んだラルフ・レーンが率いるおよそ600名からなる探検隊が、再びロアノーク島に到着する。ローリーの報告とは裏腹に、ロアノーク島近辺は決して植民に適しているとは言えなかった。近海は島だらけで、浅瀬が多く、常に座礁の危険があったのだ。取り敢えず一隊はロアノーク島北部に砦を建設し、グレンヴィルは進捗状況を報告するため帰国。一方、107名の男と共に砦に残り守備を担っていたレーン達は、現地のインディアンと衝突して激戦を繰り返していた。彼らは戦いには長けていたものの、植民に関しては素人同然であったため、食料の欠乏を如何ともしがたく、すっかり植民の意欲を失っていた。サー・フランシス・ドレーク率いる大探検隊に救出されると、これ幸いとばかりに一緒に帰国してしまう。

 ロアノーク島への最初の植民はみじめな結果に終わったが、1587年5月8日、今度は前回の航海に測量士兼画家として参加していたジョン・ホワイトが率いる一団150人が、再度ロアノークへ向けて出発する。ロアノーク島に到着した一団は植民を進め、ホワイトの娘が女児を出産し、植民地にちなんでヴァージニアと名づけられるといった慶事もあった。ちなみに彼女は植民地で生まれた最初の白人である。しかし、インディアンとの衝突が数を増すなど、状況は深刻になる一方であったことから、ホワイトはローリーに救援隊派遣を求めるべく帰国する。ところが当時のイギリスは、来るべきスペイン無敵艦隊との決戦に向け一国を挙げて準備が進行中。遥か西の植民地などに余計な船と人員を割いている余裕などあるはずもなく、救援は先延ばしとなる。

 ようやくホワイトが救援隊と共にロアノークに到着したのは1590年8月17日。しかし島は山火事がちらつく他は不気味に静まり返っていた。イギリスの音楽を演奏し、何度も呼びかけるも、全く返事が無い。翌18日にホワイト達は島に上陸、捜索を始めたが、小屋や防護柵は雑草に覆われているばかりで、娘も、孫娘も、他の仲間も、誰一人姿を見出せない。

 一体、皆はどこに行ってしまったのか。やがて一つの標識が見つかり、きれいな大文字ではっきりこう記されていた。

 「CROATOAN」

出典:???A?m?[?N???A???n?W?c???H????

	

ジョン・ホワイトによるロアノーク地域図、中央右寄りの小さな島がロアノーク島

			

ルートヴィヒ2世の謎の最期

ルートヴィヒ2世 (Ludwig II., 1845年8月25日 - 1886年6月13日)は、第4代バイエルン国王(在位:1864年 - 1886年)。「狂王」の異名で知られる。若い頃は美貌に恵まれ、多くの画家らによって描かれた。

1870年、普仏戦争で弟オットー1世が精神に異常をきたした。ルートヴィヒはますます現実から逃れ自分の世界にのめり込み、昼夜が逆転した生活を送るようになった。王は一人で食事を取り、あたかも客人が来ているかのように語っていたり、夜中にそりに乗って遊んでいたところを地元の住民に目撃されたと伝えられている。
危惧を感じた家臣たちはルートヴィヒ2世の廃位を計画し、1886年6月12日に彼を逮捕し廃位した。代わりに政治を執り行ったのは叔父の摂政ルイトポルト王子であった。ルートヴィヒはベルク城に送られ、翌日の6月13日にシュタルンベルク湖で、医師のフォン・グッデンと共に水死体となって発見された。その死の詳細については未だ謎のままである。その知らせを受けたエリーザベト皇后は「彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした」と述べている。
生前ルートヴィヒは「私が死んだらこの城(ノイシュヴァンシュタイン城)を破壊せよ」と言い残した。それは彼が城を自分の世界にとどめたかったという思いからきた言葉であったが、摂政ルイトポルトも地元の住民らも城を壊さずにそのまま残し、現在は観光施設を兼ねた文化財として活用されている。

出典:ルートヴィヒ2世 (バイエルン王) - Wikipedia

	

ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)

1874年撮影

晩年のルートヴィヒ2世

ルートヴィヒ2世の謎の最期

リジー・ボーデン

Lizzy Borden took an axe
 And gave her mother forty whacks
 When she saw what she had done
 She gave her father forty-one

 上の子供の戯れ歌は、リジー・ボーデンの親殺しが既に伝説と化していることを物語っている。リジー・ボーデン人形(血みどろの斧を持っている)もハロウィンの人気商品だ。我が国の「お岩さん」や「お菊さん」と同じような扱いである。しかし、彼女の伝説は現実にあった極めて血生臭い事件に基づいていることを忘れてはならない。単なる怪談とは一線を画するのだ。

 その日は猛烈に暑かった。1892年8月4日、マサチューセッツ州フォールリバーの閑静な住宅地での出来事である。午前11時15分、ボーデン家の次女リジーが、ソファで仮眠中の父親が殺されているのを発見した。70歳の銀行家アンドリュー・ボーデンは手斧で顔を11回も斬りつけられていた。鼻は削がれ、左眼は二つに裂かれて眼孔から飛び出していたというから、とても人間業とは思えない凶行である。
 すぐに医者と警察が呼ばれた。隣人も騒ぎを聞いて駆けつけた。間もなくアンドリューの後妻アビーも2階の客間で俯せで倒れているのが発見された。やはり手斧で後頭部を19回も殴打されていた。

 この日、家には被害者の他にはリジーと女中のブリジット・サリヴァンの2人しかいなかった。アンドリューの遺体が発見された時、ブリジットは窓の掃除を終えて屋根裏の自室で休んでいた。するとリジーの叫び声が聞こえた。
「早く降りてきて! お父さまが死んでるの! 誰かに殺されたのよ!」
 一方、リジーはというと、納屋にいたところ母屋から父の悲鳴が聞こえた。慌てて戻ると父が殺されていたと説明した。
 検視の結果、アビーの死亡時刻は午前9時過ぎと推定された。ところが、夫が殺害されたのはそれから2時間後のことである。リジーが説明したように、犯人が外から侵入したとするには無理がある。
捜査が進むにつれて、リジーが継母を憎んでいることが判明した。また、殺人の2日前、彼女は青酸を買おうとして失敗している。そして、父親と継母は数日前から胃痛に悩まされていた。
 以上から導き出される結論はただ一つ。リジー・ボーデンが犯人である。
 かくしてリジーは逮捕され、裁判にかけられたが、無罪となった。
 何故か?
 ボーデン家が地元の名士だったからである。ボーデン家の息のかかった新聞社や宗教団体、業界団体(フォールリバーは織物の町であり、その経営はボーデン家が支配していた)が結束して、様々な働きかけを行ったのだ。
 小泉純一郎の「郵政民営化、是か否か?」じゃないが、弁護士の「リジーは死刑か無罪放免か?」という二者択一の陪審員への呼び掛けも功を奏した。この娘を(といっても、もう33歳なのだが)状況証拠だけで死刑にするのは忍びないと思った陪審員は無罪を評決。晴れて釈放されたリジーは1927年に死ぬまで生きた。当たり前だが、悠々自適に暮らしたというから悔しいではありませんか、みなさん。

 では、リジー・ボーデンは本当に「シロ」なのか?
 今日では「シロ」だと信じている者は皆無といってよいだろう。
 まず、継母の死と父の死との間の2時間の空白は外部犯行説では説明できない。そして、女中のブリジットには犯行の動機がない。だとすれば動機のあるリジーより他に犯人はいない。
 動機に関しても、より具体的なことが判明している。リジーが継母を憎んでいたことは前述したが、そのことで高齢の父親が心配しないわけはない。妻のために何かを残してやろうと思うのが人情である。そこで、その所有する牧場を妻の名義に変えようとしていた。その書き換えが予定されていたのが、まさに犯行の当日なのである。妻が待ち合わせの時間になっても現れないので、父親は自宅まで迎えに来た。リジーはさっき出掛けたと云う(実はとっくに死んでいた)。ならば、今頃は書き替えの手続きをしているのだろうと安心した父親は、ソファに座って仮眠をとる。そこに手斧が振り降ろされたのである。

 しかし、財産目的だったにしては随分と残虐な殺し方である。
 この点、リジーには定期的に失神する症状があったことから、癲癇の発作がそうさせたのではないかという見解がある。発作によりトランス状態に陥り、理性が働かないままに凶行に及んだというのだ。
 リジーは当日、月経だったとの指摘もある。
 この日がこの年一番の猛暑だったことも忘れてはならない。
 コリン・ウィルソンは、これらすべての要素、すなわち、癲癇による発作、資産を巡って裏取り引きが行われようとしていることへの怒り、継母への憎しみ、月経による苛立ち、そして猛暑が相互に作用して、この凶行が実現したのではないかと推測している。
 いずれにしても、なんらかの狂気が働いていたことは間違いないだろう。

出典:殺人博物館〜リジー・ボーデン

	

アンドリュー・ボーデンの頭蓋骨

			

メアリー・セレスト号

1872年12月5日の午後、ジブラルタルに向け、ポルトガルのリスボンから西に700kmほど離れた大西洋上を航海中の英国船、「デイ・グラシア号」のモアハウス船長は、一隻の奇妙な帆船が漂流しているのを発見した。奇妙というのは、その船が理由も無く右舷開き(帆を左側に広げること。風が右から吹いた時にこの状態になる)で帆走していたからである。明らかにおかしいと感じたモアハウスは、船に呼びかけ、信号を発したが、船からは何の返事も無く、船上に人影すら見当たらない。船体には、「メアリー・セレスト(Mary Celeste)」(注1)とあった。

 メアリー・セレスト号は、アメリカ船籍を有する全長31m、282トンのブリガンディン型帆船で、原料アルコールを積み、11月5日にニューヨークからイタリアのジェノヴァに向けて出帆していた。乗組員は、ブリッグズ船長とその妻セアラ、2歳の娘ソフィアに、乗務員7人を加えた計10人。モアハウスはこの船を知っていた。彼はブリッグズ船長と友人で、出帆前に会食をしたばかりか、ニューヨーク港では互いの船を隣り合わせに接岸していたからである。デイ・グラシア号がニューヨーク港を出帆したのは、メアリー・セレスト号が出帆した10日後であった。

 モアハウスは一等航海士のオリヴァー・デヴォー他2名に命じ、メアリー・セレスト号を調べさせた。ボートで接近し、船によじ登る3人。船上には誰もいない。救命ボートが失われており、乗員は何らかの理由で船を棄てたのだと考えられた。しかし何故か? 甲板は嵐で傷んでおり、甲板の下には海水が侵入していたが、全体として大きな損傷は見られず、船を棄てる理由が見当たらない。

 続いて3人は船内を調べ始める。暴力の形跡は無い。食料は十分、衣服も残ったまま。積荷の原料アルコールも残されたままであったが、樽の一部が壊れて中身が流出していた。船長室には航海日誌が残されていたが、アゾレス諸島の西160kmに位置しているという11月24日の記述を最後に途絶えていた。また、経線儀や六分儀といった航海計器類が失われており、やはり――人影は見当たらなかった。

 乗組員失踪の謎は不明のまま、モアハウスはデヴォーに命じ、メアリー・セレスト号をジブラルタルに入港させる。海難救助料が手に入ると思っていたモアハウスを待っていたのは法廷であった。ジブラルタルの官憲が疑惑を抱いたのである。「ブリッグズとモアハウスが共謀して事件をでっちあげ、救助料をせしめようとしているのではないか?」。一方、この説を自国民に対する愚弄と受け止めたアメリカ側は、こう反論する。「ブリッグズは高潔な人格者である。それに船の売却益は海難救助料を上回る(ブリッグズはメアリー・セレスト号の共同所有者の一人であった)……」。その後の調査で共謀の疑いが弱まると、今度はモアハウス達がメアリー・セレスト号に海賊行為を働いたのだという説まで飛び出した。最終的にはいずれの疑いも晴れたものの、モアハウスにしてみれば船を救ったつもりが、とんだ大迷惑を被った格好であった。

 米英両国を巻き込んだ論争が繰り広げられたものの、結局、メアリー・セレスト号の乗組員の行方は不明のまま、やがて事件は忘れ去られていった。ところが、デビュー前のアーサー・コナン・ドイル――シャーロック・ホームズの生みの親――がこの事件に目をつけた。彼は事件の細部に手を加え、白人に恨みを抱く一人の黒人が船を乗っ取るという筋書きの短編小説、『J・ハバカク・ジェフスンの遺言』を書き上げる。もっともらしい書きぶりのこの小説は、メアリー・セレスト号事件の主任検察官が「J・ハバカク・ジェフスンなる人物は存在しない」と大真面目に反論したこともあって大きな評判を呼び、ドイルは作家としての地歩を固め始める。

 同時に、メアリー・セレスト号事件も再び蘇った。以後、メアリー・セレストの名は史上最も有名な幽霊船の名として、虚実を合い混ぜつつ今日まで語り継がれている。

出典:???A???[?E?Z???X?g??????

	

アマゾン号(1861年)。後にメアリー・セレスト号に改称される

			

マックス・ヘッドルーム事件

テレビにおける電波ジャックで最も有名なのは、アメリカ・シカゴで起こった「マックス・ヘッドルーム事件」です。誰が何のためにテレビ放送をハッキングしたのか現在も謎であるこの事件は、四半世紀を過ぎてもなお多くの人の関心を集めています。

1987年11月22日午後9時16分、シカゴのWGN-TVが放送する「The Nine O"Clock News」で突如として映像が途切れ、サングラスをかけたマスクの男が不気味に笑いかける映像が流されました。

この不気味なマスクのキャラクターは、イギリス「チャンネル4」が製作したCGキャラ「マックス・ヘッドルーム」であり、突然現れた不思議な映像に、テレビを視聴していたシカゴ市民だけでなく、番組関係者も戸惑うばかり。この時の混乱ぶりは、番組コメンテーターのダン・ローン氏の「何が起こったかと思ったでしょう?私もです」というコメントと苦笑いから伺うことができます。

この奇妙な放送事故からちょうど2時間後の午後11時15分、WTTWが放送中のドラマ「ドクター・フー」に再びマックス・ヘッドルームが現れます。

マックスによる2度目の電波ジャックは、1分22秒という長時間におよび、放送局では視聴者からの電話が鳴り止まなかったといいます。この放送事故(マックス・ヘッドルーム事件)は、翌日の全米各局のニュース番組にこぞって取り上げられ、「VIDEO PIRATE」と名付けられた謎のマスク男は世間の注目を一身に集めることに。

アメリカの放送電波規制に責任を持つ連邦通信委員会(FCC)と連邦捜査局(FBI)はただちに捜査を開始し、マックス・ヘッドルームによる電波ジャックは、放送に対する専門的知識を持つ者による犯行であることが判明します。放送局は、映像を広い範囲に送信するために、スタジオのある高層ビルから各地にある送信機に信号を送り届けるスタジオ送信機リンク(STL)というシステムを構築していたところ、ハイジャック犯は、STLのマイクロ波を圧倒する高出力の周波数を持った信号を浴びせることで、放送局ビルの送信機を混乱させ自身の信号を送信させることに成功していたとことが明らかになりました。

FBIは、「犯人は技術に精通した人物、おそらくは放送技術者である」と断定したものの確たる証拠をつかむことはできませんでした。マックス・ヘッドルーム事件のFBI捜査報告書をまとめたマイケル・マルコス氏は当時を振り返り、「マックス・ヘッドルーム事件は、人が死んだわけではなく損害らしい損害もなかったため危険性は高く評価されず、捜査のリソースが少なすぎました」と悔やんでいます。

結局、犯人が見つかることはなく、史上最大の放送事故として語り継がれる「マックス・ヘッドルーム事件」は、四半世紀を過ぎた現在においても謎の事件とされており、インターネットではその犯人捜しが今でも盛んに行われています。

クラシック・シカゴテレビ・ミュージアムの創立者であるリック・クライン氏は、マックス・ヘッドルーム事件について映画ウォー・ゲーム以来の衝撃的なものであったと話します。事件当時13歳だった彼は、事件を録画したビデオテープをワクワクしながら何度も再生したと言います。クライン氏は、マックス・ヘッドルーム事件のムービーをYouTubeにアップロードしたところ、現在までに200万回以上再生されているそうで、いまだに事件に対する関心が大きいことが明らかになっています。クライン氏は、マックス・ヘッドルーム事件の犯人捜しを現在も行っているとのことです。

出典:史上最大の電波ジャックとして今も語り継がれる「マックス・ヘッドルーム事件」とは? - GIGAZINE

	

マックス・ヘッドルーム

			
	
	

ヴォイニッチ手稿

ヴォイニッチ手稿(ヴォイニッチしゅこう、ヴォイニッチ写本、ヴォイニック写本、英語: Voynich Manuscript)とは、1912年イタリアで発見された古文書。暗号とおぼしき未知の文字で記され、多数の彩色挿し絵が描かれている。

14世紀から16世紀頃に作られたと考えられている古文書。全230ページからなり、未知の言語で書かれた文章と生物を思わせる様々な彩色された挿絵から構成されている。文章に使用されている言語は、単なるデタラメではなく言語学的解析に照らし合わせ、何らかの言語として成立機能している傍証が得られているため、一種の暗号であると考えられているが内容は不明。
手稿の名称は発見者であるポーランド系アメリカ人の古書商、ウィルフリッド・ヴォイニッチにちなむ。彼は1912年に、イタリア・ローマ近郊のモンドラゴーネ寺院で同書を発見した。現在はイェール大学付属バイネキー稀書手稿ライブラリが所蔵する。
2011年にアリゾナ大学で行われた放射性炭素年代測定により、使用されている羊皮紙は1404年から1438年に作られたと判明した。だが執筆時期はさらに後年の可能性がある。

手稿には記号システムが確認されている特殊な文字によって何かの詳細な説明らしき文章が多数並んでおり、ページの上部や左右にはかなり緻密な植物や花の彩色画が描かれている。植物の絵が多いが、それ以外にも、銀河や星雲に見える絵や、精子のように見える絵、複雑な給水配管のような絵、プールや浴槽に浸かった女性の絵などの不可解な挿し絵が多数描かれている。
暗号が解読できないため挿し絵の分析から内容を推測する試みもなされたが、成功していない。描かれている植物の絵などは実在する植物の精緻なスケッチのようにも見えるが、詳細に調べても描かれているような植物は実在せず、何のためにこれほど詳細な架空の(と考えられる)植物の挿し絵が入っているのか理由は定かでない。


文字部分の拡大図。単語の反復が異常に多いこと、冠詞と名詞のように対になって現れる単語がほとんどないことは分かっている
挿し絵のなかに浴槽に浸った女性の絵があり、この絵についてレヴィトフは、中世南フランスで12世紀から13世紀ごろ栄えたキリスト教の異端教派とされるカタリ派の「臨終(または宗教的な自殺)」の儀式のさまを現していると主張した。手稿全体もカタリ派の教義書か関連文書であると主張したが、仮説にすぎず、反論もある。また描かれた女性は全裸であり、このことから服飾に基く執筆当時の時代判定も困難である。
暗号文を言語学の統計的手法で解析した結果、本文はでたらめな文字列ではなく、自然言語か人工言語のように確かな意味を持つ文章列であると判断されたが、なお解読されていない。
発見当初と初期の暗号解読研究では画期的な内容が記されている可能性が考えられ、解読に対し大きな期待がかけられた。しかし、今日ではどのような暗号なのかという知的興味と解読することへの知的挑戦において魅力があるが、内容はもし解読できたとしてもそれほど驚くべきものではないだろうという意見が大勢を占めている。例えば、反復する出現パターンに着目し、既存の文字譜(文字で表記された楽譜)との類似性を指摘した見方もある。また、後述のように全くのでたらめであるとの説も有力である。
また、この手稿は一種のアウトサイダー・アートであり「解読」しようとする試みそのものが無意味であるとの意見も存在するが、これも仮説の域を出るものではない。

出典:ヴォイニッチ手稿 - Wikipedia

	

ヴォイニッチ手稿の内容。生物について書かれているように見える。パイプのような挿絵もある。

			

ホープダイヤモンドの呪い

実はこのダイヤの出所に2説があり、一つはラマ・シータという仏像の胸に飾ってあったものを密かに盗んだというもの。
 もう一つはインドの農夫が偶然畑で見つけたと言うもの。
 前者によれば最初の大きさは270カラットあったといいます。
このダイヤは、盗品を隠すためや呪いを振り払うべくその後何度も加工・研磨され、最終的に44カラットになったと言われていました。実際の最終的な大きさは、長さ25.60mm、幅21.78mm、厚さ12.00mm、重さ45.52カラットのブルーダイヤのようです。

 1605年インドでこのダイヤを手に入れたフランス人宝石商タベニールは、息子にダイヤを奪われたあげくに息絶えました。
 このダイヤはルイ14世に売却され、マリー・アントワネットが身に着けることになります。マリー・アントワネットの悲劇はご存知のとおり。
 ダイヤはフランス革命で一時不明となりますが、その後アムステルダムの彫金師に渡ります。ところが、この男も息子にダイヤを盗まれ極貧のうちに死ぬことになります。
 その息子も自殺し、次の所有者も不可解な死を遂げます。
 1839年ロンドンのオークションで競り落としたヘンリーホープは、周りの期待に応えたわけでもないでしょうが、数年後破産、その後死亡。
 このダイヤは1851年ににホープダイヤモンドとして、クリスタルパレス博覧会でディスプレイされた後、1906年ホープ家からロシアの王子の手に渡りました。
 結局ホープ家では4代で約60年間保有しますが、一族は地に落ちてしまいます。
 ホープダイヤを手に入れたロシアの王子は暗殺され、次のフランス人所有者は自殺。 その次のギリシャ人商人は他殺。最後に買い取ったニューヨーク宝石商ハリー・ウィンストンが1958年にスミソニアン研究所に寄贈し悲劇の歴史は幕を閉じたと言われています。

 小生がこのホープダイヤをワシントンのスミソニアン博物館で見たのは、もう十数年も前の事。
盗難を防ぐためだとは思いますが、このダイヤの為だけに警備員が張り付き、異様な雰囲気の中で分厚いガラスの奥にあったホープダイヤを眺めました。

 たしかに大きなダイヤですが、決して美しくは無く、小生にはうす黒く曇って見えました。
 多分に悲劇の歴史の暗示もあったかも知れませんが、決してほしいとは思いませんでした。

 もし、皆さんもワシントンに行かれることがありましたら、ぜひスミソニアン博物館でホープダイヤをご覧になられることをお勧めします。

ダイヤモンドは46億年前の地球誕生時に出来た鉱物で、高温高圧で純粋な炭素が結晶化したものがダイヤモンド原石。
 この原石が、その後地球の地殻変動で地球内部から地表に出て来たものが採取される天然ダイヤで、新たに自然界で生成される事も無く、数量も少ないことから希少性を生み出しています。

 近年、人工的にダイヤモンドが作られるようになったが、今のところ装飾用や観賞用に供するような物はできないため、 もっぱら工業用として利用されているようです。

 実はホープダイヤはブルーダイヤと呼ばれる炭素結晶の中にほう素が含まれためずらしいダイヤだそうです。
ある鉱物博士によれば、結晶物にはある種の電気的なエネルギーが封じ込められていてるという。 そして、鉱物に含まれたこの種のエネルギーは圧力や熱などで放出されることもあるという。

 しかし、炭素の完全な結晶体である一般のダイヤモンドは、多少の刺激では放出されない。 ところが、ブルーダイヤの場合は結晶の重要な交点にほう素という不純物が含まれたダイヤであるため、 ブルーの光を放つとともにこのある種のエネルギーも放出しているのではないか、という仮説が立てられました。

 この種のエネルギーには人間に対してプラスに作用するものとマイナスに作用するものがあるそうです。 例として適切かどうか判りませんが、ある種の鉱物は遠赤外線を放出することで人にプラスに作用すると言います。
 ホープダイヤの場合は放出したエネルギーがマイナスの作用を引き起こしました。
 それを身につけた人が精神的・肉体的影響を受け、ストレス、病気、ノイローゼ、自殺などを引き起こしたと考えられるというのです。

 しかし、人間にマイナスに作用するエネルギーとはなんだろう?
 未だ発見されていない物かも知れないし、既知の物なのかも知れません。
 遠赤外線が体にいいなら逆の遠紫外線は?ブルーの光とともに強力な遠紫外線が放出されているのでしょうか?或いはある種の放射線等の放出があるのでしょうか?

 いずれにしても、渦中のホープダイヤは厳重に警備されたスミノニアン博物館の中です。機会があれば各自でご覧になって推測してみて下さい。

出典:?z?[?v?_?C???̂??b

	

ホープダイヤモンドの呪い

			

フィラデルフィア計画

-フィラデルフィア計画-
フィラデルフィア計画(フィラデルフィアけいかく、Philadelphia Experiment)は、ペンシルベニア州フィラデルフィア沖合で行われたとされる、アメリカ海軍のステルス実験(正式名称『レインボー・プロジェクト』)。通常、都市伝説の一つである。
非表示都市伝説としての「フィラデルフィア計画」
以下、この節では、都市伝説としての「フィラデルフィア計画」について説明する。


-実験に至るまで- 

駆逐艦「エルドリッジ」この実験は、1931年、ニコラ・テスラが設立したと言われるレインボー・プロジェクトの一環であった。当時のレーダーは、「船体が発する、特徴ある磁気に反応するシステムである」と考えられていた。そのため、テスラは、「テスラコイル(高周波・高電圧を発生させる変圧器)で船体の磁気を消滅させれば、レーダーを回避できる」と考えていた。
その後、この実験はフォン・ノイマンに引き継がれ、1943年、駆逐艦「エルドリッジ」に船員を乗せ、初の人体実験を行なうこととなる。

実験と結果 

1943年10月28日、ペンシルベニア州フィラデルフィアの海上に浮かぶ「エルドリッジ」を使って、遂に大規模な実験が秘密裏に行われた。
当時は第二次世界大戦の真っ只中であり、実験は新しい秘密兵器「磁場発生装置テスラコイル」を使い、「レーダーに対して不可視化する」というものであった。 エルドリッジの船内には多くの電気実験機器が搭載されており、そのスイッチを入れると強力な磁場が発生 駆逐艦がレーダーからはもとより、肉眼でも認められなくなった。実験は成功したかのように見えたが、不可思議な現象が起こる。実験の開始と共に海面から緑色の光がわきだし、次第にエルドリッジを覆っていったのである。次の瞬間、艦は浮き上がり発光体は幾重にも艦を包み、見る見る姿はぼやけて完全に目の前から消えてしまった。
「実験開始直後に、駆逐艦はレーダーから姿を消す」、ここまでは実験参加者達の予定通りであった。しかし直後にエルドリッジは「レーダーから」どころか完全に姿を消してしまい、おまけに2,500km以上も離れたノーフォークにまで瞬間移動してしまっていたのである。それから数分後、またもや発光体に包まれ艦はもとの場所に瞬間移動した。
再び戻ってきたエルドリッジだが、驚くべきことに乗員は、次のような惨状に陥っていた。
•体が突然燃え上がった
•衣服だけが船体に焼き付けられた
•甲板に体が溶け込んだ
•発火した計器から火が移り、火達磨になった
•突然凍り付いた(冷凍化)
•半身だけ透明になった
•壁の中に吸い込まれた
また、生き残った乗組員も精神に異常をきたし、エルドリッジの内部は、まさに地獄絵図の如くであった。唯一、影響を受けなかったのは、鉄の隔壁に守られた機械室にいた、一部のエンジニアたちだけだった。
こうして実験自体は成功したが、「行方不明・死亡16人、発狂者6人」という、取り返しのつかない結果になった。このことに恐れおののいた海軍上層部は、この極秘実験を隠蔽したといわれている。

密告の発端 

そもそも、この「実験が行われた」という密告は、1956年にモーリス・ケッチャム・ジェサップ(天文学の分野で博士号を持つ作家)の元に、カルロス・マイケル・アレンデという人物から届いた手紙に端を発する。その手紙には「レインボー・プロジェクト」の内容が克明に綴られていたという。
しかし、モーリスはこの手紙を受け取った3年後(1959年4月)、謎の自殺をしている(排気ガスをホースで車内にひきこみ、一酸化炭素中毒で死亡)。アメリカ海軍は総力をあげてアレンデという人物を捜したが、失敗に終わったという。
一説では、「マンハッタン計画に対する欺瞞作戦」とも言われる。現在でもこの不可解な超常現象の伝説は、多くのマニアを惹きつけている。

出典:

	

ピザ配達人首輪爆弾事件

2003年8月28日アメリカ・ペンシルベニア州エリーのピザ屋に電話がかかってきた。声が小さくて聞き取れなかったオーナーのトニー・ディトモは、この店で30年配達を続けている店員のブライアン・ウェルズ(46)と代わった。しかしブライアンは、午後1時47分に配達に出かけたまま二度と戻っては来なかった。午後2時20分、街にある銀行にそのブライアンが入ってきた。ブライアンは窓口の女性に手紙を渡し、中身を読むように命令。そして杖を改造したライフルを突きつけ、25万ドルを渡すよう要求した。窓口係の行員は、銀行内で使われる暗号『オードリー』で銀行強盗であることを行員に告げた後、8000ドルをブライアンに渡した。2時28分、銀行から逃亡したブライアンはなぜかハンバーガーショップに立ち寄り、花壇の中を探り再び逃走。しかし通報を受けた警察が2時32分、ブライアンを包囲。彼は逮捕されたが、警察官に首にかけてある爆弾を外す様に頼んだ。彼の首には時限装置が巻きつけられており、警察は爆弾処理班を呼んだ。このニュースはすぐにテレビで生中継された。3時18分、「ピザ屋の店長に連絡させてくれ」という言葉を最後に爆弾が爆発、ブライアンは爆死。処理班到着3分前だった。爆発の瞬間は全米に衝撃を与えた。

8月29日事件の捜査はFBI主導で行われ、指揮をとったのはジェラルド・クラーク捜査官。最大の手がかりはブライアンの持っていた犯行指示書とも言える9枚の紙。しかし犯人グループがどこでブライアンに接触したのか不明だった。ピザ屋の注文電話がかけられた公衆電話付近を中心に聞き込み、ブライアンの家も調べられたが証拠品は全く見つからなかった。ブライアンの身辺調査も行われたが結果はシロ、捜査は行き詰った。9月20日イリー郡警察から連絡があり、郡警察はウィリアム・ローススティーンという男性から通報を受け、冷蔵庫に入れられていた死体を発見した。8月13日ウィリアムの知り合いの女性マージョリー・アームストロングが浮気をした恋人のジェームズ・ローデンを射殺、ウィリアムに死体を処理するよう頼まれていた。しかし恐怖を感じたウィリアムは警察に通報、ウィリアムは死体遺棄の容疑で、マージョリーは殺害容疑で逮捕。FBIは、ピザの届け先の近くに住み、爆弾を作る技術を持っている人間を捜索、そこで浮上してきたのがウィリアムだった。FBI行動分析ユニットBAUでプロファイリングが行われ、組織化されたグループでの犯行で、合致する人物として爆弾を作成したのがウィリアム、マージョリーもプロファイリングに合致。徹底的な調査が行われた結果、ウィリアムは自宅に作業場を持っていることが判明した。

マージョリーは2度の結婚で夫が不審死を遂げており、1984年には当時のボーイフレンドをピストルで射殺。マージョリーは正当防衛が認められ無罪の過去がある女だった。しかしエリー郡刑務所に収容されたマージョリーとウィリアムに対して取調べが行われたが、自白を得ることは出来なかった。2004年7月ウィリアムが急性白血病で死亡。2005年7月マージョリーが捜査の指揮を執るジェラルド・クラーク捜査官を呼び出した。弁護士を伴っていた彼女は別の刑務所に移すことを条件に事件の有力情報を提供するという。2003年8月マージョリーは銀行強盗のためにウィリアムに爆弾作らせ、その銀行強盗の計画をしゃべろうとしたローデンを殺害したと自供。しかし弁護士が精神鑑定の必要を訴えたため、起訴には持ち込めず捜査は再び暗礁に乗り上げた。

ところが事件から3年半が経過した今年初め、ある女性が浮かび上がってきた。ブライアンが常連客だったという売春婦で、二人はよくケネス・バーンズという男の家に行き、そこでマージョリーに会った。ブライアンとマージョリーが繋がり、FBIはケネスを取り調べ、ケネスは司法取引で自分の刑を軽くすることを条件に宣誓供述した。彼によると、主犯格はマージョリーで、ウィリアム、ケネスそしてブライアンも仲間だった。ブライアンは偽物だと騙されピザの配達の途中でウィリアムの家に行き爆弾を巻かれ銀行に向かった。しかし焦ったブライアンがわずかな金しか奪えなかったため、マージョリー達は現場から逃走。計画は失敗したが、ブライアンはこの世から消え去るため、自分たちに捜査の手が届くことはないはずだった。マージョリーは今年7月に起訴されたが、精神鑑定を受け、いまだ無罪を主張しているという。

出典:

	

ハーメルンの笛吹き男

ドイツのちょうど真ん中あたりに、ハーメルンという町がある。

13世紀末、この町で世にも不思議な事件が起こった。この事件は伝説となってのちのちまで長く伝わり、

19世紀の初めにグリム兄弟が次のような話にまとめている。

1284年、ハーメルンの町にねずみとり男だと名乗る男が現われた。お金とひきかえに町のねずみをのこらず退治してみせるという。

町の人はこの男と取引の約束をした。そこで男は笛を取り出し、吹き鳴らした。すると、その音を聞いて家々からねずみがチョロチョロ走り出てきて、男のまわりに集まった。

男は町を流れるウェーゼル川に向かうと、ねずみも男のあとについていき、男が服をからげて川の中に入っていくと、ねずみも続いて水にはいり、ねずみはみな溺れ死んでしまった。

町のねずみがみな死んでしまうと、人々は男に金を払うのが惜しくなった。そこで、いろいろな口実をもうけて金を払わなかった。男はカンカンになって怒り、町を去った。

しばらくたって6月26日の朝、いつかのねずみとり男がまたハーメルンに現われた。男の顔つきは恐ろしかった。

やがて男は路上で笛を吹き鳴らし始めた。すると、前のときのねずみと同じように、4歳以上の少年や少女が大勢走りよってきた。合計130人の子供たちは、笛を吹く男のあとをついて通りを抜け、東の門から出ていった。それから遠くのポッペンブルクという山に着くと、男と共に消えうせてしまったのである。

子供たちが帰ってこないのを知った母親たちは、悲しみに泣き崩れた。町の人々は八方手をつくして捜したが、手がかりはまったくなかった。

子供たちは山の穴を通り、ジーベンビュルゲン(今のハンガリー東部の山地)で再び地上に現れた、というものもあったが、それとてだれも確かめることはできなかった。

ハーメルンの人々はこの事件があって以来、年月を数えるには、子供たちがいなくなった日から数えて何年、というようになったという。

ハーメルンで、1284年6月26日に130人の子供が突然行方不明になるという事件が起こったことは、間違いのない事実のようである。

この不思議な事件の真相については、いろいろな説が述べられてきている。

ドイツのボエラー女史は次のように推測する。6月26日は「ヨハネとパウロの日」という祭りの日であった。この日、ハーメルンの子供たちは、大人と同じように祭りの興奮につき動かされ、ポッペンブルクの崖の上に火をともそうと行列を組んで出かけた。その先頭に、笛吹き男がいたのかもしれないし、いなかったのかもしれない。子供たちはポッペンブルクにたどりついたが、危険な崖を登っているうち、次々と底なし沼に落ちこみ、抜け出せずに死んだ──。

また、130人は子供ではなくて、集団結婚式をあげたばかりの65組の男女であり、新しい土地を求めて東方植民を行ったのだ、という説もある。13世紀ドイツでは、さかんに東方植民が行われていた。東方植民は、司教や貴族が計画し、請負人に植民希望者を集めさせた。笛吹き男というのは、その請負人のことだというのである。

いずれにしろ、真相は不明である。

出典:楽しい世界史≫中世ヨーロッパ史≫ハーメルンの笛吹き男

	

ハーメルンのマルクト教会にあるステンドグラスから模写された、現存する最古の笛吹き男の水彩画(アウグスティン・フォン・メルペルク画、1592年)

			

鉄仮面

鉄仮面または仮面の男(The Man in the Iron Mask)とは、実際に1703年までバスティーユ監獄に収監されていた「ベールで顔を覆った囚人」をモチーフに作られた伝説、作品をいう。

その囚人は1669年に、ルイ14世の大臣からピネロル監獄の監獄長サン・マール侯爵に預けられ、侯爵が自ら世話をしたという。このため、早くも囚人の正体に関する噂がささやかれ始めた。以降、サン・マール侯爵の転任と共にその囚人も移送され、サントマルグリット島を経て、1698年にバスティーユに移送された。当時のバスティーユの看守は、「囚人は常にマスクで顔を覆われ、副監獄長直々に丁重に扱われていた」と記録している。囚人は1703年11月に亡くなり、彼の所有物などは全て破棄されたという。

1890年 軍歴史学者Louis Gendronが、ある暗号化された一連の手紙を解読させたところ、ルイ14世の暗号係により作成されたメッセージであることが判明し、その内の1つには、逮捕されたVivien de Bulonde将軍とその罪に関する事柄が記されていた。それによると、ルイ14世は、オーストリアで軍需物質、傷病兵を置き去りにして退却した罪で将軍をピネロル要塞に収監することを命令し、彼を「個室に監禁し、昼間はマスクで顔を覆ってのみ胸壁を歩くことを許す」と指示していた。日付も囚人が最初にピネロルに収監された日と一致しており、仮面の囚人がVivien de Bulonde将軍であったことは、ほぼ間違いないと思われる。


鉄仮面または仮面の男
鉄仮面または仮面の男(The Man in the Iron Mask)とは、実際に1703年までバスティーユ監獄に収監されていた「ベールで顔を覆った囚人」をモチーフに作られた伝説、作品をいう。

その囚人は1669年に、ルイ14世の大臣からピネロル監獄の監獄長サン・マール侯爵に預けられ、侯爵が自ら世話をしたという。このため、早くも囚人の正体に関する噂がささやかれ始めた。以降、サン・マール侯爵の転任と共にその囚人も移送され、サントマルグリット島を経て、1698年にバスティーユに移送された。当時のバスティーユの看守は、「囚人は常にマスクで顔を覆われ、副監獄長直々に丁重に扱われていた」と記録している。囚人は1703年11月に亡くなり、彼の所有物などは全て破棄されたという。

1890年 軍歴史学者Louis Gendronが、ある暗号化された一連の手紙を解読させたところ、ルイ14世の暗号係により作成されたメッセージであることが判明し、その内の1つには、逮捕されたVivien de Bulonde将軍とその罪に関する事柄が記されていた。それによると、ルイ14世は、オーストリアで軍需物質、傷病兵を置き去りにして退却した罪で将軍をピネロル要塞に収監することを命令し、彼を「個室に監禁し、昼間はマスクで顔を覆ってのみ胸壁を歩くことを許す」と指示していた。日付も囚人が最初にピネロルに収監された日と一致しており、仮面の囚人がVivien de Bulonde将軍であったことは、ほぼ間違いないと思われる。

伝説

しかし、当時の噂では、フランス軍元帥、オリバー・クロムウェル、 フランシス・ド・ヴァンドーム(Francois de Vendome、フロンドの乱の指導者の1人)等が挙げられており、その後、様々な憶測がなされた。主な推測だけでも以下のようなものがある。


バイエルンのシャルロッテ・エリーザベトはウィリアム3世暗殺未遂(フェンウィック)事件(1696年)に関わったイギリス貴族(ジャコバイト)だと主張した。


ボルテールは、宰相ジュール・マザランとルイ13世妃アンヌ・ドートリッシュの息子で、ルイ14世の庶兄であるとした。デュマはこの説を双子の兄にして『鉄仮面』を書いた。


1801年にナポレオンの支持者に広まった説では、囚人はルイ14世本人で、マザランにより、扱いやすい替え玉と取り替えられたというもので、この話には、囚人が獄中で子供を作り、その子が後にコルシカ島へ行き、ナポレオンの祖先になるという尾ひれも付いている。


『仮面の男』(Barnes、1908年)ではチャールズ2世の庶子ジェームス・デラ・クローチェ(James de la Cloche)で、フランスとの連絡役を務めていたが、イギリスとの関係の露呈を恐れたルイ14世によって監禁されたと言うもの。

出典:Zorac歴史サイト - 鉄仮面または仮面の男

	

小説の中で描かれた囚人のイラスト

			

切り裂きジャック

英国のいや世界の犯罪史に残るこの有名な猟奇殺人事件は、あまりにも有名なために、知っているのが当たり前と言わんばかりに、あまり解説されていません。そこで、基本的なことを解説します。

注意 : あまりにも残忍なので、これ以降は18歳未満の人、気の弱い人は読まないで下さい。


1.事件の概要
1888年8月31日から同年11月9日までの約2ヶ月の間に、イーストエンドのホワイトチャペル・ロード周辺で売春婦ばかり5人が残忍な手口で連続して殺害された事件。
犯人は未だ逮捕されていません。(捜査は打ち切られています)


メアリ・アン・ニコルズ
42歳女売春婦1888年
8月31日午前2時30分にパブ「フライパン」を出た後、ホワイトチャペルロードで殺害された。陰部から腹にかけて2回切り裂かれていた。また喉も2回切り裂かれていた。

アーニー・チャップマン
47歳?女売春婦1888年
9月8日ハンバリー・ストリート29番地で発見された。喉を切られ、首は胴から離れそうになっていた。下腹はぱっくりと開いており、内臓は切断されて肩のあたりに投げすてられていた。子宮と膀胱は犯人によって持ち去られていた。

エリザベス・ギュスターフスドッター44歳女売春婦1888年
9月30日バーナー・ストリートで発見された。喉を2度切り裂かれて殺害されていた。

キャサリン・エドウズ43歳女売春婦1888年
9月30日イーストエンドのマイター・スクエアで発見された。下腹から首元にかけてタテに大きく切り裂かれ、内臓が引きずり出されていた。また鼻と右の耳朶が切り取られていた。左の腎臓と子宮は犯人に持ち去られていた。

メアリ・ケリー25歳女売春婦1888年
11月9日ミラース・コート13番地の被害者の自宅で発見された。被害者の中で、最も残忍な殺され方をした。バラバラに解体されており、顔は目鼻の位置も分からないほど破壊されていた。


最も有力な容疑者は次の5人
①モンタギュー・J・ドゥルイット
31歳教師。最後の事件の直後に自殺。
②スタンレイ博士
息子がメアリ・ケリーから梅毒を移されたというのが動機と考えられた。
③ニール・クリーム
アメリカ人。1892年に別件で絞首台にかけられた時、最後に「俺がジャック・ザ・リ・・・」と言って死んだ。
④コミンスキー
ポーランド系ユダヤ人。ホワイトチャペルロードに住み、売春婦を憎んでいた。
⑤マイケル・オストログ
ロシア人の医者。殺人癖があり、何度も精神療養施設に隔離されたことがある。

これ以外にも多くの人が容疑者として上げられています。
また、「シャーロック・ホームズ」の作者コナン・ドイルも犯人を推理して、犯人は外科的知識を有しており、女装していたと言っています。
ビクトリア女王の孫、クラレンス公爵も容疑者の一人と噂されていました。

しかし、真犯人は100年以上たった今でも判明していません。

出典:

	

1888年10月13日、イラストレイテド・ロンドン・ニュースによる発行の記事。「With the Vigilance Committee in the East End: A Suspicious Character」

			

カスパー・ハウザー

カスパー・ハウザーとは19世紀初期のドイツに生きたある青年の名前である。
彼が誰の子で、どこで生まれたかはわかっていない。1828年5月、ニュールンベルクの街に突然現れ、1833年12月、何者かによって暗殺された。

カスパー・ハウザーが発見されたとき、彼は足許がふらついてろくに歩けず、言葉もしゃべれなかった。彼は近くに住んでいる騎兵師団の指揮官宛ての手紙を持っていたが、その指揮官には思い当たることがまったくなかった。彼の身柄は警察に委ねられた。
警官や判事が彼の取り調べを行ったが、何一つとして得られることはなかった。彼はまったく会話ができなかったからだ。だが、紙とペンを渡されると「Kaspar Hauser」と書いた。彼はその名で呼ばれるようになった。

やがてわかったことは、カスパー・ハウザーはごく幼い頃から狭い部屋に幽閉され、パンと水だけを与えられて育ち、他人の存在を理解できず、時間の観念もなく、外の世界というものをまったく知らずにいたということだった。

カスパー・ハウザーは初め、パンと水しか受け付けなかった。水以外の飲み物や肉などには臭いをかいだだけで不快感を示したという。

「ほんの一滴のワインやコーヒーなどを、こっそり水に混ぜて飲ませても、彼は冷や汗をかいてしまい、吐き気や激しい頭痛に襲われてしまうのだった」

また、カスパー・ハウザーの視覚は当初は充分には機能していなかった。
後日わかったことだが、彼は窓から見える景色というものを認識できなかった。彼は窓を閉ざしたよろい戸に白や青や緑、黄などの絵の具で描かれた模様を見ていたのだ。

ところが、カスパー・ハウザーの視覚能力は驚くべきものだった。
彼は夜でも昼と同じ歩調で歩いた。夜、手すりを探りながら歩く人を見て、笑ったという。

「夕暮れが近くなったころ、彼は教授に、かなり離れたクモの巣にブヨがひっかかっているといって教えたことがある。(中略)詳しく調べてみた結果、彼は完全な暗闇でも、青と緑といった暗さの異なる色を正しく識別できることがわかった」

同じように、聴覚や嗅覚も常人よりはるかに鋭敏だった。
また、金属や磁石に関しては特別な感覚を示した。

「ダウマー教授が磁石の陰極を向けた時、カスパーは手で自分の腹のくぼみを押さえ、チョッキを外側に引っ張るようにしながら、空気が自分の中から出ていくみたいだ、といった。陽極の方を向けた時は、それほどでもなかったが、空気が入り込むみたいだといった。(中略)教授は、カスパーに気づかれないようにして、その後も同様の実験をやってみた。しかし、カスパーの感受性はいつも正確だった。磁石をかなり離しておいても、陰極と陽極どちらの方を彼に向けた場合でも、同じようであった」
世間に現れたばかりの頃、カスパー・ハウザーはろくに歩けもしなかったが、やがて、乗馬の才能を発揮して人々を驚かせた。
彼は乗馬の基本やこつを教わるとすぐにそれを覚えてしまった。

「いつだったか、教官が気の荒いトルコ馬の調教に四苦八苦していた時、カスパーはさして恐れもせず、教官にその馬に乗せてくれと頼んだりしたことがあった。(中略)とくに彼は、元気でたくましい脚の速い馬が好きで、何時間もぶっつづけで飽きもせず乗り続けることがしばしばだった」

カスパー・ハウザーは熱心に学習し、恐ろしいほどの早さで知識を吸収した。
周囲の人が回顧録を執筆してはどうかとすすめるのを受けて、自伝を書けるほどだった。

1829年10月、彼は何者かに襲撃され、額に大きな傷を負わされる。
1833年12月、彼はアンスバッハという街の公園で何者かに胸を刺され、3日後に死亡した。

カスパー・ハウザーをめぐる一連の事件はヨーロッパ中の人々の関心を集め、医学界、文学界など各方面を刺激した。小説や詩の題材になることもたびたびであった。
カスパー・ハウザーは当時の王位継承者の子息であるといった説が広まる一方、ただのペテン師であると主張する人もいた。

カスパー・ハウザーの身体的特徴が調査されている。
彼の膝は筋肉や腱の付き方が常人と異なっていて、彼が脚を前に伸ばして床に座ると、膝が完全に伸びきり、膝の下が床と密着したという。「トランプのカード1枚ですら、その間にさし込むことが無理なほど」だったと報告されている。
(このような膝の変形が彼をペテン師ではないと証明していると私は思う)

カスパー・ハウザーの出現と最期にはいろいろなことを考えさせられる。
身体的な事柄に限ってみても、ヒトの持ちうる能力についてもっと可能性を広く大きく考えなければならないような思いにさせられる。
人類(ホモサピエンスおよびその先祖)は、その発達した脳(知恵)で厳しい自然淘汰の世界を生き抜いてきたと一般には言われている。
しかし、こういう見方を付け加えることはできないだろうか。

現代人はヒト科の動物が有しうる能力を過小評価しているのではないか、と。
人類は、カスパー・ハウザーが示したような鋭敏な感覚と優れた身体能力によって、火や道具の使い方を見出すまでの永い年月を生き抜いたのだ、と。

出典:

	

カスパー・ハウザー

			

ウィンチェスター・ミステリーハウス

ウィンチェスター・ミステリー・ハウス(英: Winchester Mystery House)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンノゼにある屋敷の名称。いわゆる幽霊屋敷とされる建物。

この屋敷はかつて38年もの間絶えず建設がつづけられており、呪われているという噂がある。屋敷はその昔、銃のビジネスで成功を収めた実業家ウィリアム・ワート・ウィンチェスターの未亡人、サラ・ウィンチェスターの個人的な住宅であったが、現在は観光地と化している。このサラ・ウィンチェスターの指示の下、38年後の1922年9月5日に彼女が死亡するまで、実に24時間365日、屋敷の建設工事が続けられた。こうした続けざまの建設工事費は、およそ550万ドルであったと見積もられている。
屋敷はその巨大さと設計の基本計画が無いことで有名である。一般に信じられている話によると、サラ・ウィンチェスターは屋敷がウィンチェスター銃によって殺された人々の霊によって呪われており、それらが邸宅内で及ぼすと予想した霊障からいつでも逃れる為の隠し部屋・秘密通路をひたすら増築し続け備えておく事しか方法がないと妄執していたとされている。屋敷はサンノゼの525 サウス・ウィンチェスター通りに位置している。

1866年に娘のアニーを、そして1881年に夫を亡くし、深い悲しみに暮れ慰みを求めていたサラ・ウィンチェスターは、友人のアドバイスにより霊媒師の助言を求めた。通説によれば、「ボストンの霊媒師」の通り名で知られていたこの霊媒師が、ウィンチェスター家が代々製造してきた銃が多くの人々の命を奪ってきたため、一家にかけられた呪いが存在するとサラに告げたのだという。さらに霊媒師は、銃のせいで幾千という人々が死に、彼らの魂がいま復讐の機会を求めているのだと告げたのである。異論はあるものの多くの人々から信じられているところによると、ボストン霊媒師はサラ・ウィンチェスターに、コネチカット州ニューヘイブンにある自宅を出て西へ旅立つことを告げる。加えて、「アメリカ西部へ行き着いたその場所へ、あなた自身とその恐ろしい銃で亡くなった人たちの霊のために家を建てなさい。家の建設を止めてはなりません。あなたがもし建て続ければ、あなたは生き長らえるでしょう。もし止めれば、あなたは死んでしまうでしょう」と伝えた。この物語が本当かどうかは定かではないが、サラ・ウィンチェスターは実際に西へと引っ越し、カリフォルニア州へ定住して彼女の屋敷の建設工事を開始した。
夫の死により、サラ・ウィンチェスターは2千万ドル以上の財産を相続した。また、彼女は銃器製造会社のウィンチェスター・リピーティングアームズの50パーセント近い所有権を受け取り、概算でも1日につき千ドルの収入があったと考えられている。その上、これらの資産は1913年まで課税されなかった。この千ドルの収入は、2006年現在の金額にしておよそ2万1千ドルに相当する。こうして蓄えられた莫大な資産によって、彼女は屋敷を増築しつづけるための資金投資が可能となった。

出典:ウィンチェスター・ミステリー・ハウス - Wikipedia

	

南東から見た邸宅。

			
	

アナタハンの女王事件

アナタハンの女王事件(アナタハンのじょおうじけん)とは1945年から1950年にかけて太平洋マリアナ諸島に位置する孤島アナタハン島で発生した、多くの謎が残る大量死亡事件。別名「アナタハン事件」「アナタハン島事件」。

サイパン島から北方約117キロに位置するアナタハン島は、東西の長さ約9キロ・幅3.7キロの小島で、最高点は海抜788メートルというなだらかな小島であった。
この太平洋の孤島アナタハン島で、1人の女「比嘉和子」と32人の男達が共同生活していくうちに、男性達がその女性を巡って争うようになり、男性が次々に行方不明になったり殺害されたりしたことで島はサバイバルの様相を見せた事件である。
南洋興発株式会社社員の妻、同社社員の男性上司、帝国陸海軍の軍人・軍属31人の計32人(日本人)は当初は全員で共同生活を送っていた。しかし、そのうち全員が1人の女性を巡って争うようになり、1945年8月の終戦までに行方不明者が2人出た。1945年8月の終戦で、米軍は拡声器で島の住人達に日本の敗戦を知らせたが、アナタハン島の日本人は誰も信じなかった。
1946年8月、彼らはB-29の残骸を発見し、残骸の中から発見された4丁の拳銃を組み変え、2丁の拳銃が作られた。これ以降、銃の存在が権力の象徴となり、以来女性を巡って、男性達の間で公然と殺し合いが行われるようになった。
この後、1950年6月、米国船の救出によって女性が脱出し、翌1951年6月には生き残った男性19人も救出された。この事件で死亡した男性は行方不明を含め13人にのぼった。
アナタハン島の女を巡る一連の怪事件が戦後、大々的に報道され、日本国内で「アナタハンブーム」となり、女性のブロマイドがとても売れた。女は男を惑わす女として報道され、大衆の好奇の目に晒された。映画化もされた。
終戦の混乱と米国信託統治の関係から権力空白地帯で発生した事件のため、現在でも死亡の原因について不明な点がある。

出典:アナタハンの女王事件 - Wikipedia

	

残留日本人救出のために島に接岸するボート

			

アナスタシア

1904年~1905年にかけての日露戦争で敗北し、1914年に勃発した第一次世界大戦も3年目になったロシア帝国は、戦いに疲弊し国民の不満は極限に達していた。 そして1917年の早春、手に手に武器を持った民衆が冬宮殿になだれ込み、300年・18代続いたロマノフ王朝はその幕を閉じる。 3月革命で樹立された臨時政府によって監禁されたニコライ2世の一家は、最初ペトログラード郊外の宮殿に軟禁されてからソビエト各地を転々と幽閉され続け、最後の監禁場所はエカテリンべルクにある2階建ての大きな屋敷。 館は高い塀と鉄柵で覆われ、すべての窓は白ペンキで塗り潰され、一家は外部との接触を一切禁じらレて厳しく監視される生活だったが、互いに協力しあって生活した。

1918年7月17日の真夜中、寝ているところを叩き起こされた家族は反革命軍が迫っているという口実で地下室に集められ、処刑隊が皇帝一家7人・専従医・女中・料理人・従僕、など11名を殺害した。 皇帝ロマノフ一家が殺されたというニュースは世界を駆けめぐったが、その真相は謎とされ神秘のべールに包まれたままだったため、誰が言うこともなく銃撃を受けた四女のアナスタシア姫(当時17歳)は彼女に好意を持つ兵士に助けられ、ロシア国外で生きているという噂が取り沙汰されるようになる。 アナスタシア伝説は世界中に広まり、それと平行して自分こそがアナスタシアと名乗る女性が10年間で30人も現れたが、歴史上おそらく最も有名な王族偽装者が、ポーランド生まれのアメリカ人女性 「アンナ・アンダーソン」(1896年~1984年)。

1920年氷もまだ溶けきらぬベルリン、運河のほとりに一人の女性が流れ着く。 記憶喪失の自殺未遂者として精神病院に収容されたアンダーソンは、自分がロシアから処刑を逃れ脱走してきたアナスタシアだと名乗り出る。 事実、彼女のロシア宮廷に関する知識は驚くべきもので、また耳の形や足の異常形態などアナスタシアと酷似する身体的特徴が認められた。 さらに旧皇室に関わった者しか知りえなかった子細な事柄についての知識があったことから、ロマノフ家に連なる貴族を含む多くの支持者を得た。 その後彼女はロシア王室遺産をめぐる訴訟を起こすことになるが、ロマノフ王朝の遺産はイングランド銀行の預金だけでも数百億円を下らぬ巨額なものだった。 しかし訴訟は最終的に真偽の確定が不可能として却下された。

ロマノフ家の遺産を手に入れる策略を立てたロシアの元将軍が、街で拾った記憶喪失の女性を存命伝説のアナスタシア皇女にすべく彼女を「本物」らしく仕立て、ついに「皇太后マリア・フョードロヴナ」との「涙のご対面」まで漕ぎつける。 しかしいつしか彼女への想いも「本物」になってしまうという戯曲を映画化したのが、1956年公開のアメリカ映画 「追想」で、主役のイングリッド・バーグマンが2度目のアカデミー主演女優賞を受賞した。 デンマーク王の次女に生まれ、悲劇の皇帝ニコライ2世の母親となった皇太后マリアは、ロシア革命でクリミア半島のヤルタに幽閉される。 妹マリアの幽閉を知った知った姉のアレクサンドラは、マリアとその一家を救うべく奔走し、甥のジョージ5世も戦艦マールバラを差し向け、マリアと娘一家を救い出す。

マリアは姉とロンドンで再会した後、故国デンマークに亡命したが息子一家の死に衝撃を受け、一家の写真を手元において余生を過ごしたが、孫娘のアナスタシア皇女だと名乗る女性が現れても、彼女は会うことを生涯拒み続けている。 1991年ソビエト連邦の崩壊によって公開された記録から、元皇帝一家全員が赤軍によって銃殺されたことがことが確認され、さらに掘り起こされた遺骨が「DNA鑑定」という最新の法医学判定によって、謎に包まれた神秘のヴェールも払拭され、数十年の長きに及んだアナスタシア伝説の夢も幕を閉じた。 (鑑定資料の中には日本に保管されていた「大津事件」の血染めのハンカチも含まれている) しかし今日でもなお、アナスタシアが処刑を逃れ、天寿を全うしたと信じてるロシア人は多い。 ロマノフ王朝への哀悼と過去への懺悔なのかもしれない。 

出典:ドメインパーキング

	

赤毛布(青ゲット)の男殺人事件

明治39(1906)年2月12日の早朝5時頃、福井県の九頭竜川河口付近の三国町と新保村(現福井県坂井市)
との間に架かる新保橋(当時は木製)を、大工の男が昨晩降り積もった新雪を踏みしめながら、仕事場へと急いでいた。
500メートルあまりある橋の中央付近に差し掛かった時、大工の目に異様な光景が飛び込んできた。
積もった雪が真っ赤に染まり、おびただしい量の血痕があたり一面に拡がっていたのである。
そして、付近の欄干の一部が斧で切り落とされたように無くなっていた。
大工はあわてて警察へ駆け込んで、新保橋の異常な事態を警官に知らせた。
 通報を受けた三国警察署は殺人事件と判断して、捜査員を派遣して捜査を開始する。
捜査の結果、下記の事実が判明した。

 2月11日夜の21時頃、吹雪が吹きすさぶ中、三国町上西にある廻船問屋・橋本利助商店に男が現れた。
その男は見た目35歳ぐらい。手ぬぐいをほおかむりして、さらにその上から青っぽい毛布(ゲット)をかぶるという、
異様ないでたちだった。男は番頭の加賀村吉(30)に取り次ぎを願い出た。
村吉が出てみると男は「私は、新保村の加賀さんの親戚から使いとして来たものですが、
『親戚のおばあさんが急病で倒れたので、すぐ来て欲しい』とのことなので、迎えにきました」
と告げ、村吉を連れ出していった。
 それから2時間あまりたった頃、三国町玉井にある村吉の自宅にも、青ゲットをかぶった男が現れた。
男は同じように「私は使いの者ですが、新保村の親戚のおばあさんが重い病気にかかり、
『是非とも三国のおっかさんに会いたい』といっているため、『すぐ呼んで欲しい』
と頼まれたので、迎えにきました」と言い、今度は村吉の母・キク(50)を外へ連れて行った。
 それから1時間程過ぎると再び男が現れて、同じ方法で村吉の妻・ツオ(25)を連れ出した。
さらに40分程経つと三度男が現れて、村吉の二女(2)までをも連れ出そうとしたが、
その時応対した隣家の女性(ツオに留守番と子守を頼まれて村吉家に在宅していた)が、
男に不審を抱いて娘を渡すことを拒んだため、危うく難を逃れることが出来た。
(村吉には長女もいたが、その日は子守として他の家に出向いていたので無事だった)
 青ゲットの男に連れ出された3人は、その後いつまでたっても戻らず、
調べると新保村の親戚には誰も病人などなく、使いの者を頼んだ事実もないことが分かった。
三国警察署に置かれた捜査本部は、九頭竜川一体の大掛かりな捜索を行い、
村吉家裏手の竹田川に係留してあった小船の船べりに、血痕が付着していているのを発見した。
そして小船から少し下流の川底から、妻ツオの遺体が沈んでいるのが見つかった。
さらに翌日には母キクの遺体が、九頭竜川の河口付近に沈んているのを発見し、引き上げた。
しかし、村吉の遺体はその後の捜索でもついに発見することは出来なかった。
 村吉の遺体が発見されなかったことから、村吉主犯説が捜査本部の中でも取りざたされたが、
新保橋の血痕が1人分にしては多すぎることなどから、やはり村吉も殺害され遺棄されたという判断に。
 状況や証言から捜査本部が見立てた事件の経過は、
 まず青ゲットの男は店から村吉を連れ出して、新保橋に差し掛かったところで殺害して川へ落とす。
次に自宅に訪れ母キクを連れ出し、同じく新保橋で殺害して川に落とした。
続いて妻ツオを「舟で対岸の新保村へ渡す」とでも言って船べりに誘い出し、殺害して川へ棄てる。
その後、娘も連れ出そうとしたが隣家の女に拒まれて失敗した、というもの。
 捜査本部は男が一家を次々に連れ出して、残忍に殺害していることから、
村吉に強い恨みを抱いた者が犯人の可能性があると推理したが、
真面目で酒も飲まず良く働き、若くして番頭に取り立てられた村吉は評判が大変良く、
恨んでいる者を見つけることが出来ないまま、捜査は暗礁に乗り上げた。
そのまま進展することなく、大正10年にはついに時効を迎え、迷宮入りとなってしまった…

 ところが、事件から20年過ぎた大正15(1926)年12月12日、
京都府警に窃盗の罪で逮捕されていた谷本仁三郎(49)なる男が、
自分がこの事件の真犯人であると告白したのである。
20年ぶりの真犯人判明と報道されたが(福井新聞:大正15.12.13)、
 しかし、窃盗の前科が多数ある窃盗(おそらく空き巣)犯の谷本が犯したにしては不自然な点が多い。
まず窃盗目的だとして、このような手のかかる事をわざわざするだろうか。
強盗するにしても普通に押し入れば良く、複数回に分け連れ出して殺害する意味が無い。
まして店にいた村吉を連れ出す理由は、金品目的なら皆無だ。
事実、犯人は金品を盗ることが出来ないままに終わっている(手持ちの金を盗れたかもしれないが)。
 また、逮捕された谷本が証言した他の事件においても、「でたらめを述べている節が二、三ある」と
警察が疑問を呈していることからも、谷本の証言は怪しく、真犯人とは考えにくい。
 しかし、すでに時効を迎え捜査資料も散逸していたことから、真相は解明されないままに終わった。。

出典:赤毛布(青ゲット)の男殺人事件 - 未解決事件・失踪/行方不明事件・印象に残った事件

	

UVB-76

UVB-76とは、ロシアの小さな村にある短波ラジオ放送局のおそらくコールサイン(無線局識別のコード名)、およびその独特な放送内容につけられるタグである。

30年以上もの間、数秒おきにブザー音を発するだけの放送を続けており(まれにそうでない内容の放送を行うことも。後述)、「The_Buzzer(ザ・ブザー)」とも呼ばれている。

短波4625kHz。最初の放送は1982年。当時は短い電子音だったが、1990年頃から特徴的な今の音色になる。

音質がよくない上、ブザーに交じって時折物音や会話が聞こえることから、録音や自動発信ではなく、ブザーの出る機械をマイクの前に置くというかなりアナログな方法が取られていることがわかっている。

モスクワ時間で毎日午前11時から50分間はブザーが停止する(保守点検のためとされる)。毎正時の前60秒間はブザーが鳴りっぱなしになる。

2010年6月10日に突然音が停止したが、何事も無く再開された。

また、過去に5度ほどブザーを中断しロシア語によるメッセージが放送されたことがある。詳細はこちら

なお、何らかの目的があっての放送だと言われているが、その実態は未だに謎に包まれている。

出典:UVB-76とは (ユーブイビーナナジュウロクとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

	

D.B.クーパー事件

D.B.クーパー事件(ディービークーパーじけん)とは、アメリカ合衆国で発生した、身代金を要求したハイジャック事件である。単独犯による事件であり、パラシュート降下による逃亡という大胆さなどから、アメリカ国内においてもっとも有名な未解決事件の一つとされる。
犯人は、身代金を受け取った後、飛行中のボーイング727の後部にあるドアを開けさせ、現金200,000ドル(2012年現在の貨幣価値にして約1億円)を持ってパラシュートで脱出した。検挙されず、また犯人の身元も不明な未解決の事件である。後に身代金の一部がコロンビア川で発見され、実際には犯人は死亡したともいわれているが、死体は発見されていない。
「D.B.クーパー」はFBIの手配の際、手違いで広められた犯人の名前であるが、犯人による自称「ダン・クーパー」もまた偽名であることは確実である。

アメリカの感謝祭前日であった1971年11月24日に、経由地のオレゴン州ポートランドからノースウエスト航空11便(ボーイング727-100型、ワシントンD.C.発シアトル行き、機体記号N467US)には、乗員6名と乗客36名が搭乗していたが、その1人が「ダン・クーパー」の偽名で搭乗していた犯人であった。
午後4時35分(現地時間)に離陸後、犯人は機内サービスの際に客室乗務員の女性に代金と一緒にメモを渡した。その乗務員は、当初、自宅の電話番号のメモだと思ったが、犯人は「爆弾を持っている」と告げたため確認すると、爆弾を所持していることと身代金20万ドルとパラシュート4つを要求する脅迫状であった。また隣に座るように要求した。
そのため客室乗務員が操縦席に連絡したが、パイロットは疑わしいと思い犯人の隣に座り本当に爆弾を持っているかを尋ねると、犯人は持っているブリーフケースを開け、そこには赤い管と導火線(ダイナマイト)が見えた。そのためパイロットは管制官にハイジャックされたと告げ、それに対し当局はハイジャック犯に従うように指示した。犯人であるD.B.クーパーはハイジャック犯としては、紳士的であったと言われている。
午後5時45分にシアトル・タコマ国際空港に緊急着陸後、身代金とパラシュートと引換えに犯人は乗客全員と客室乗務員2名を解放した。午後7時45分にシアトルを離陸し、犯人は機長に対しネバダ州リノに向かえと要求し、高度1万フィート(約3000m)に維持したうえでランディングギア(車輪)を出しフラップの角度を15度下げて飛行するように指示した。こうすることにより、空気抵抗が生じ、時速は320キロまで落ちていた事が判明している。
犯人は午後8時11分ごろに、ボーイング727の後部にあったリアドア(昇降用階段)を空中で開き、パラシュートで現金と共に脱出した。その様子は追跡していた空軍のF-106戦闘機2機は視界がきかなかったため確認できなかったが、犯人はポートランドの北30マイル(約50km)にあるアリエルの郊外に降りたと思われていた。その後当局は18日間捜索したが彼の行き先に関する手かがりはつかめなかった。
ほとんど指紋を残さないなど、完璧なまでの完全犯罪にD.B.クーパー人気は社会現象になり、事件のあった日はダン・クーパー・デイとして記念日的扱いを受けた。FBIに悪戯で「俺がD.B.クーパーだ」と名乗りだす者が続出したり、ホームパーティーにスーツを着用、札束を身につけたクーパーの仮装で登場した者も現れたほどであった。

出典:D.B.クーパー事件 - Wikipedia

	

FBIが公表した被疑者の似顔絵

			

関連書籍

関連まとめ

この記事が気に入ったら

いいね!しよう

Sharetubeの最新記事をお届けします

著者プロフィール
johndoe