「これはひどい!」袴田事件の全貌

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袴田事件とは


袴田事件(はかまだじけん)とは、1966年に静岡県清水市(現静岡市清水区)で発生した強盗殺人放火事件、およびその裁判で死刑が確定していた袴田 巖(はかまだ いわお、1936年3月10日 - )元死刑囚が冤罪を訴え、2014年3月27日に死刑及び拘置の執行停止並びに裁判の再審が決定(未確定)された事件。日本弁護士連合会が支援する再審事件である。

出典:袴田事件 - Wikipedia

	

元ボクサー袴田巌氏は死刑判決を受け、45年以上、東京拘置所に拘禁されていた

			

その夜の出来事

死体は四体。石油のような油をかけられ、火をつけられたので、四体とも黒焦げだった。もちろん家屋も焼失した。

 火災が起きたのは、一九六六年六月三〇日の午前二時少し前である。場所は静岡県清水市横砂。惨劇は、味噌製造会社専務の居宅兼事務所で起きた。殺されたのは、専務(41)の他、妻(38)、次女(17)、長男(14)の四人。長女は、別棟に寝ていたので助かった。                      


 メッタ刺しにされた死体の刺し傷はあまりに多く、正確な数はわからない。四人の傷の総計は、少なくとも四五ヵ所。警察は、焼け跡から発見されたクリ小刀一本を凶器としたが、先端がわずかに折れていただけだった。刃こぼれもしていない。また、警察の調査によると、約八万円のカネが奪われたというが、橋本家にあった多額の金品は、手つかずに残されていた。

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アリバイ

「こがね味噌」の従業員だった袴田巌さん(30)は、仕事が終って夕食の後、橋本家に近接した工場の二階にある寮の自室に帰った。同僚と将棋をさした後、テレビドラマを見た。午後一一時過ぎ、パジャマに着替え、消灯し寝た。

 消防車のサイレンの音で目がさめた。グッスリ寝こんでいたので、しばらくの間ウトウトした。「店が火事だ」という隣の部屋にいた同僚の叫び声に飛び起き、パジャマのまま自室を出て駆け降りた。気持ちが動転していたが、とにかく水をかけなければと思い、工場の中でバケツを探した。同僚が「消化器、消化器」と大声で駆けてきたので、一緒に探したが見つからない。やっと消火栓に取り付けるホースを見つけ、同僚たちとホースの束を持って、事務室の前にある消火栓に走った。土蔵の後ろにある物干台に上り、屋根によじのぼった。足をすべらして落ちた時、ブリキか何かで左手の中指に怪我をした。火事は二〇分程で鎮火した。消火作業中に水をかけられズブ濡れになった。


  その後自室に戻った袴田さんは、とりあえず中指の怪我の出血を止めるために、手ぬぐいを引き裂いて縛った。消毒をしなかったので、後に傷跡が化膿して医者に見てもらうことになった。


 これが事件当夜の袴田さんの取った行動のすべてである。アリバイは完ぺきで、袴田さんと事件との関係は皆無だった。

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袴田巌さん

1937年(昭和11年)生まれ。

1959年、23歳の袴田巌さんはプロボクサーになるため静岡県から上京、不二拳闘クラブに入門。

1961年5月札幌で4回戦試合。後、眼と足に変調を来たし、プロボクサー廃業。(全日本フェザー級6位)再起を期し、静岡県下にもどり、清水市横砂の「こがね味噌」に就職。

取調べ・拷問


袴田への取調べは過酷をきわめ、炎天下で平均12時間、最長17時間にも及んだ。さらに取調べ室に便器を持ち込み、取調官の前で垂れ流しにさせる等した。

睡眠時も酒浸りの泥酔者の隣の部屋にわざと収容させ、その泥酔者にわざと大声を上げさせる等して一切の安眠もさせなかった。そして勾留期限がせまってくると取調べはさらに過酷をきわめ、朝、昼、深夜問わず、2、3人がかりで棍棒で殴る蹴るの取調べになっていき、袴田は勾留期限3日前に自供した。取調担当の刑事達も当初は3、4人だったのが後に10人近くになっている。

これらの違法行為については次々と冤罪を作り上げた紅林麻雄警部人脈の関与があったとされている。

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警察庁科学警察研究所


袴田は4人殺害後、この裏木戸の下部の留め金と中央部の閂(かんぬき)をはずして上部の留め金はかけたまま扉の下方を押し開いていったん脱出し、工場にあった混合油入りのポリ容器をもって被害者宅に戻り放火したことになっている。県警は裏木戸の実物大模型を作って実験し、上部の留め金をかけたままでも人の出入りは可能と結論付けていた。弁護団は東洋大学工学部建築学科の教授に鑑定を依頼。教授が実物大の木戸の模型を作って実験した結果は、上部の留め金をかけたままでは最低部で最大32センチしか開かず、人の出入りは不可能であると結論付けた。その後、東海大学工学部教授に鑑定を依頼した。教授は静岡県警の実験写真をコンピューターで解析した結果、袴田がもぐり抜ける状態を再現した裏木戸の開き方では上部の留め金がはずれてしまうことが分かった。

11月15日、静岡地裁で第1回公判開始。袴田は自白は強要させられたもので、警察・検察官によって作られたストーリーであると主張。「取り調べの苦痛から逃れるため、署名指印した」と述べた。


1967年(昭和42年)8月31日、静岡地裁での1審公判中、大きなミソの貯蔵タンクの中から血に染まったブリーフ、ステテコ、ズボン、白半袖シャツ、スポーツシャツの5点の衣類が入った南京袋が出てきた。ズボンのポケットにはマッチと絆創膏が入っていた。終始、尾行されていた袴田にはこれらを隠すのは不可能であった。


9月12日、警察が袴田の実家のタンスから鉄紺色のズボンの共布を「発見」して押収。押収した警官はまっさらな共布を見て即座に8月31日に「発見」されたミソ漬けになったズボンの共布と判ったという。


9月13日、検察が冒頭陳述の「犯行時の着衣を従来のパジャマ」から8月31日に「発見」された「5点の衣類」に変更。


1968年(昭和43年)9月11日、静岡地裁は袴田巌に死刑を言い渡した。袴田は無罪を主張し、ただちに控訴。判決では「5点の衣類」を着て殺害し、その後パジャマに着替えて再度侵入して放火したと認定される。


1969年(昭和44年)5月29日、東京高裁で第1回控訴審開始。


1971年(昭和46年)11月20日、東京高裁での控訴審の法廷で、犯人が着衣していたズボンの装着実験が行われたが、袴田には小さくてはけなかった。検察側はミソ漬けになっていたので縮んだ、とか袴田が太ったのだと主張した。装着実験は控訴審で計3回実施されたが、いずれもズボンがはけなかった。


1976年(昭和51年)5月18日、東京高裁で控訴を棄却。


翌19日、上告。


1980年(昭和55年)9月22日、最高裁で第1回公判開始。


11月19日、最高裁で上告棄却で死刑確定。


同日、社会評論家の高杉晋吾(現・退会)が代表となり、ボクシング評論家の郡司信夫、寺山修司、日本ボクシング協会会長の金平正紀、元東洋ジュニアミドル級チャンピオンの川上林成、『月刊ボクシングマガジン』(ベースボール・マガジン社)編集部の松永喜久を世話人に、「無実のプロボクサー袴田巌を救う会」を設置。のちに「無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巌さんを救う会」と名称を変更。

出典:袴田事件

	
	

袴田巌死刑囚救援議員連盟

国会では、衆参両院議員による「袴田巌死刑囚救援議員連盟」が発足し、2010年4月20日に設立総会を開いた。民主党、自由民主党、公明党、国民新党、社会民主党、新党大地など日本共産党以外に所属する議員が発起人となり、総勢57名の超党派議員が参加、代表には牧野聖修・民主党衆院議員(静岡1区)が就任した。同議員連盟発足について牧野は「足利事件で無罪が明らかになるなど冤罪への関心が高まっており、袴田さんの冤罪を信じる議員が集まった。今後は法務大臣に死刑執行の停止や一刻も早い再審の開始を求めたい」と述べている。同議員連盟は、設立総会において、冤罪の可能性とともに、死刑執行への恐怖が長期間続いたため袴田は精神が不安定になっていることなどを指摘し、今後、法務大臣の職権による死刑執行の停止や、医療などの処遇改善を求めることを決めている。

同議員連盟代表の牧野は、強い拘禁反応によって心身喪失状態にある袴田に対し刑事訴訟法479条(死刑執行の停止: 死刑を言い渡されたものが心神喪失にあるときは、法務大臣に命令によって執行を停止することができる)に基づき、法務大臣に対し職務権限による死刑の停止と、速やかに適切な治療を求めるとともに、再審の道を開くべく追求することを表明している。また、担当弁護士は、国際法規に照らしても拘禁反応や糖尿病を放置している状況は人権侵害だと述べている。

また同議員連盟で、弁護団から、死刑確定後30年近く経過している現状は拷問等禁止条約などに違反している疑いがあるため、日弁連に対し人権救済の申し立てを行なった、などの報告があった。

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裁判の経過

静岡地裁では、袴田さんは「自白は強要されたものである」と無実を主張しました。

 裁判では、「自白」調書が変転を繰り返ししていることが明らかになり、警察の自白強要を認めて、44通の調書を違法として採用しませんでした。また、奪われた現金の行方は不明であり、「自白」の殺害方法と実際の死亡状況が一致せず、出入りしたとされる裏木戸には鍵がかかっており、出入りは不可能でした。

また、警察は袴田さんの部屋から押収したパジャマにごく微量の血痕が付着していたことなどから、袴田さんは、このパジャマを着用して犯行に及んだものと主張しました。ところが、1審公判中に(事件から1年2カ月後)の1967年8月に味噌タンクの中から5点の衣類が発見されました。検察は、当初は犯行着衣をパジャマとしましたが、5点の衣類が犯行が犯行着衣であると主張を変更しました。しかし、これは袴田さんには小さくて身につけることが出来ませんでしたが、警察は「縮んだ」「袴田が太った」などと強弁した。

ところが、静岡地裁は、残りの1通の調書を採用して、袴田さんに死刑判決を言い渡しました。その後、東京高裁、最高裁で有罪、1980年に死刑判決が確定しました。

出典:袴田事件 - 日本国民救援会

	

再審を求めて

袴田さんは東京拘置所に収監されているが、死刑確定後は拘禁性ノイローゼとなり、精神に異常をきたし、肉親や弁護団との面会も困難になっています。

 1981年に再審を請求し、日弁連が再審を支援し、プロボクサーなどにも支援が広がりました。2007年には、1審の裁判官であった熊本典道氏が、「自分は無罪と判断したが、他の二人の裁判官を説得出来ずに、2対1の多数決で有罪となった」と明かし、大きな反響がありました。熊本氏は「主任裁判官として判決文を作成したが、悔いが残り、裁判官を辞めざるをえなかった」と述べました。

 しかし、2008年最高裁は再審請求を棄却しました。現在、弁護団は第2次再審請求を静岡地裁に申し立てています。

出典:袴田事件 - 日本国民救援会

	

DNA鑑定で袴田さんの無実明らかに


原審の裁判では、起訴当時、犯行着衣はパジャマであるとした自白に沿う主張がなされていました。ところが、起訴から約1年後にもなって、事件直後に捜索が実施されていた味噌タンクの底部から、麻袋に入れられた衣類5点(「5点の衣類」)が発見され、公判途中で、犯行着衣が「パジャマ」から「5点の衣類」に変更されるという異常な経過をたどって死刑判決が確定したものでした。

 しかし、第二次再審でのこれまでの審理で、この5点の衣類は袴田さんのものではないことが、新たな事実で明らかになったばかりか、事件とは無関係なものであることが明らかになりました。5点の衣類に付着していた血痕をDNA型鑑定したところ、袴田さんに由来するものはもとより、被害者に由来するものも出なかったのです。この事実は、5点の衣類が警察によるねつ造であったことを意味します。元もと5点の衣類は自白にもありません。

 三者協議では、2013年12月2日までに弁護側、検察側双方が最終意見書を裁判所に提出し、12月16日に結審。

出典:袴田事件 - 日本国民救援会

	

袴田事件再審決定 「証拠捏造の疑い」


袴田事件再審決定 「証拠捏造の疑い」

			
静岡県清水市(現静岡市清水区)で一九六六年にみそ製造会社の専務一家四人が殺害された袴田事件の第二次再審請求で、静岡地裁は二十七日、強盗殺人罪などで死刑判決が確定した袴田巌(はかまだいわお)元被告(78)の再審開始と刑の執行、拘置の停止を決定した。村山浩昭裁判長は、確定判決で犯行時の着衣と認定された「五点の衣類」について「後日捏造(ねつぞう)された疑いがある」と結論付けた。事件発生から約四十八年、死刑確定から約三十四年で裁判がやり直され、死刑判決が取り消される可能性がある。 

 法務省によると、死刑囚の再審が決定したケースで、拘置の執行停止が認められたのは初めて。死刑囚の再審開始決定は財田川、免田、松山、島田と、後に決定が取り消された名張毒ぶどう酒事件に続き戦後六例目で九年ぶり。名張以外の四人は再審無罪となった。静岡地検が即時抗告すれば、再審を認めるか否かの判断は東京高裁に委ねられる。弁護団は即時抗告しないよう地検に申し入れた。

 第二次請求審の最大の争点は、五点の衣類が袴田元被告のものかどうかだった。検察、弁護側双方の推薦した専門家二人がDNA型鑑定を実施。ともに、白半袖シャツの右肩の血痕が袴田元被告のDNA型と完全には一致しないとの見解を示した。弁護団が「五点の衣類は何者かが捏造した証拠」とした一方、検察側は「試料が古く、信用性が低い」と主張してきた。

 決定は、鑑定から「五点の衣類の血痕は、袴田元被告のものでも犯行着衣でもない可能性が相当程度認められる」と指摘。鑑定結果は「無罪を言い渡すべき明らかな証拠に当たる」と判断した。


五点の衣類は事件から一年二カ月後、同社のみそタンク内から見つかった。決定は「実験結果からみても、衣類の染まり具合はみその色に比べて薄く、血痕の赤みも強すぎる。長時間みその中に隠されていたにしては不自然」と指摘。

 弁護側は、衣類のうちズボンはサイズが合わず袴田元被告のものでもないと主張。決定は確定判決の認定を否定し「ズボンが袴田元被告のものではなかったとの疑いに整合する」と認定した。

 再審開始決定を受け、袴田元被告の姉の秀子さん(81)は二十七日午後、東京拘置所へ面会に向かう。

 <静岡地検・西谷隆次席検事> 予想外の決定であり、本庁の主張が認められなかったのは、誠に遺憾。上級庁と協議し、速やかに対応したい。

出典:東京新聞(TOKYO Web)

	

袴田事件:世界最長収監の死刑囚 ギネス記録に認定

静岡市(旧静岡県清水市)で1966年、みそ製造会社の専務一家4人を殺害したとして強盗殺人罪などで死刑が確定した元プロボクサー、袴田巌死刑囚(78)。袴田死刑囚が1審で死刑判決を受けたのは1968年9月。「死刑囚として世界で最も長く収監された」とギネス記録に認定されるなど、長期間の拘束が問題となっている。超党派国会議員の「救援議連」(会長、塩谷立・元文部科学相)は今月18日、死刑の執行停止を求める決議を採択。「司法判断に口出しはしない」としながら、人道的な観点から今後も処遇改善を求めていくという。

出典:毎日新聞のニュース・情報サイト

	

袴田巌氏

			

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Sharetube